ダ・ポンテはサリエーリの推薦により、皇帝への謁見が許された。
「君はいくつ劇を書いたのかね?」
謁見の最後に、ヨーゼフ二世が質問した。
「まだ一つも」
正直に何も書いた事がないと答えるダ・ポンテだが、皇帝は笑顔を見せた。
「よろしい、よろしい! では処女の
こうして、ダ・ポンテは一七八三年三月一日、イタリア歌劇場の座付き台本作者に任命された。
再開するイタリア歌劇場の重要なポストに、デビューしていないヴェネツィアから追放された放蕩司祭を任命しようというのだ。
彼自身がダ・ポンテの事を気に入ったのもあるが、推薦したサリエーリの事をこの上もなく信用していたのだろう。
ヨーゼフ二世はジングシュピールを推進していた時期にも、ローゼンベルク伯爵を通じてサリエーリに評判の歌手の調査を依頼していたりもしていて、当時からサリエーリの『人の才能を見抜く能力』は皇帝から絶大な信頼を寄せられるほどに評価されていた事が分かる。
だからこそ、モーツァルトを高く評価するサリエーリは皇帝にさり気なく口利きをする。
「三月ニ三日にブルク劇場で行う音楽会は全てモーツァルトの曲で行いたい。陛下もご臨席なさるから、君の曲の素晴らしさを知ってもらういい機会だぞ。受けてくれるか?」
サリエーリがモーツァルトに話を持ち掛けると、若き天才は飛び上がって喜んだ。
「ええっ、いいんですか? ありがとう、パパ!」
「誰がパパだ」
こうしてイタリア歌劇場の開場を来月に控える時に行われたヨーゼフ二世臨席の音楽会が、事実上のモーツァルト演奏会となり、皇帝は二五ドゥカートを彼に下賜したのである。
「モーツァルトの曲はどうですか?」
「美しいが、やはり音符が多いな」
音符が多い。これはモーツァルト自身も後に「どうしても音が多くなっちゃうんだ」と語っているように、たびたび指摘されていた事であった。当時のヴィーンではこのモーツァルト的な音楽はあまり人気が無かったのだ。
(音符を減らしたら彼の良さが無くなってしまう……)
サリエーリはモーツァルトの曲が、思ったより大衆の耳に受け入れられていない事を、苦々しく思うのだった。
そんな彼の心を知ってか知らずか、ヨーゼフ二世はサリエーリの《イペルムネストル》の書き始めた曲を聞き、パリのメルシ・ダルジャントー伯爵への手紙で褒めた。
『サリエーリが《イペルムネストル、あるいはダナオスの娘たち》というオペラを書き始めたが、ほとんどはグルックの口述筆記によるものだ。少しだけクラヴサンの演奏で聞いたが、とても良い出来だと思う』
三月三一日付けの手紙でこう語る皇帝は、グルックの計画を成功に導くための手伝いをしているようにも見える。
一七八三年四月二二日、イタリア歌劇場はサリエーリの《やきもち焼きの学校》で開場する。この舞台では弟子のカヴァリエーリもエルネスティーナ役で参加した。この舞台は大成功を収め、ヴィーンの人々は久しぶりにイタリア・オペラの傑作が見れて大いに満足するのだった。
「サリエーリ、ダ・ポンテ。新作オペラを作るのだ」
二人は皇帝に新作オペラの制作を命じられた。だが、サリエーリはオペラ座のためにフランス・オペラを書いている最中だ。先に題材だけ決めておくことにした。
「サリエーリが気に入ったのは《一日成金》か……これはあまり劇場向きではないのだが、できるだけのことはしよう」
ダ・ポンテは題材の選択をサリエーリに委ねたのだが、その結果はあまり彼にとって好ましいものではなかったようだ。台本を作るにあたって大幅な書き直しを必要としたのである。
「ダ・ポンテは僕の台本を書いてくれるって言ったけど、サリエーリのオペラで忙しい。こんなんじゃ永遠に僕の番が回ってこないよ!」
モーツァルトは自分がオペラを作る機会が得られずにまたイライラしていた。
そして、ブルク劇場で上演される、同時代の人気作曲家パスクァーレ・アンフォッシによる《無分別な詮索好き》にモーツァルトは挿入曲をいくつか作曲した。
ランゲ夫人のためのアリア二曲とヨハン・ヴァレンティン・アーダムベルガーのためのロンドー(
「モーツァルトの挿入曲だが、あれは相応しくないと思います」
劇場監督のローゼンベルク伯爵が、言った。モーツァルトがアンフォッシのオペラを改作しようとしているという主張である。
(挿入曲を入れるだけの事が改作だと?)
彼の言葉に、サリエーリが疑問を持つ。だが、モーツァルトがローゼンベルク伯爵に、台本にドイツ語とイタリア語で通告文を印刷してもらいたいと言ってきていた。
『二つのアリアは、マエストロ・モーツァルト氏によって、ランゲ夫人の気に入るように作曲されたものである。なぜなら、マエストロ・アンフォッシ氏のアリアは、彼女の声ではなく、別の歌手に合うように書かれているからである。 しかるべき人に敬意を表し、このきわめて高名なナポリ人の評判と名声をけっして傷つけることのないよう、御注意いただきたい』
これが問題になったのだ。これはアンフォッシを馬鹿にしているとローゼンベルク伯爵が受け取った。モーツァルトがランゲ夫人に入れ込んでいるという評判も合わさり、ワガママを言っているようにしか見えなかったのだ。
「あの馬鹿、余計な事をして!」
仕方がないのでサリエーリはあの通告文を印刷するからにはランゲ夫人のアリアは挿入せざるを得ないとローゼンベルク伯爵を説得し、それから練習中のアーダムベルガーをそっと隅に連れていって忠告した。
「あの曲は歌わないように。もし歌ったら君がローゼンベルク伯爵の不興を買う事になる。これは親友としての忠告です」
アーダムベルガーはサリエーリの言う事を聞き、モーツァルト作曲の挿入曲はランゲ夫人の二曲だけが歌われる事となった。
「また邪魔をされた!」
『ランゲ夫人とアーダムベルガーが初出演するアンフォッシのオペラ《無分別な詮索好き》は、おとといの月曜日に初演されました。 ぼくの二つのアリアを除いて、まったく受けませんでした』
モーツァルトが七月二日に父へ送った手紙である。彼はサリエーリが陰謀によりアーダムベルガーの曲を諦めさせ、その事をローゼンベルク伯爵は知らないと父に語った。だが、挿入曲は台本への印刷前に全てローゼンベルク伯爵によって検閲される。知らないはずがないのである。
モーツァルトもそんな事は知っている。サリエーリの陰謀だとする手紙の内容は父向けの方便だ。
だが、それとは別に彼は確かに自分の事を妨害する敵が存在すると思い込むようになっていた。それはサリエーリやローゼンベルク伯爵も含むイタリア派閥だという認識なのだった(サリエーリの音楽はむしろドイツ派閥に属するのだが)。結局モーツァルトはイタリア作曲家嫌いな父の妄想を受け継いでしまっているのである。
その思い込みから、上記のような通告文をローゼンベルク伯爵に頼んだのであった。
モーツァルトの行いが心配ではあったが、サリエーリには自分の問題が迫っている。はやくオペラ座のためのフランス・オペラを完成させなくてはならないのだ。フランスはヴィーンよりも遥かに陰謀が渦巻き、派閥抗争が激しい。世間知らずの田舎者を相手にしている余裕は無かった。