「フランス・オペラを私が?」
突然グルックから持ち掛けられた話に、サリエーリは驚き、困惑した。彼はフランス・オペラなど書いた事はなかったのだ。それがグルックの代わりにカルツァビージ台本の《ダナオスの娘たち》仏語訳に作曲をしてパリで上演しろと言うのだ。
「ああ、私は身体の調子が悪くてとても作曲できる状態ではないのだが、《イペルムネストル》(当時のタイトル)の事がパリの宮廷で既に噂になってしまっていて、引くに引けない状態なのだ。彼等は私の作曲でなければ上演に納得しない。そこで私の作曲と偽ってサリエーリ作曲のオペラを披露し、後から本当の作曲者を明かすという寸法だ」
とんでもない計画である。グルックはパリで非常に高い名声を獲得し、騎士の称号も得ている人気作曲者だ。その代役を務めるからには、当然パリの人々を満足させる本物のフランス・オペラを作らなくてはならない。フランス・オペラを作った事も、パリを訪れた事も、上演する予定のオペラ座がどのような構造かも知らないのに、である。
「私と同じ音楽が作れるのは君だけなんだ、サリエーリ。私が知る全てを伝えるから、何としてもやってくれ。実は、もうパリのオペラ座理事会には書簡を送ってしまったのだ。来年の一〇月には作曲した楽譜を持参すると。最初の二幕は私が作曲し、残りは別の作曲家が完成させるとも伝えたので、最初の二幕は私の監督下で作ってもらう」
もう既に相当具体的なスケジュールまで決定している。グルックは逃げ道を塞いでからサリエーリに頼んだのだった。
サリエーリはグルックに学びながらフランス・オペラを作曲するのだが、締め切りの前にヴィーンではイタリア歌劇場の開場もある。ヨーゼフ二世はこの事情も知っていたので、開場記念オペラはサリエーリの大ヒットオペラ《やきもち焼きの学校》とし、更にダ・ポンテ台本の新作は後回しでもいい事になった。
そしていくらか時間がさかのぼり、一七八二年八月四日。モーツァルトがコンスタンツェと結婚する。最後まで彼の父レーオポルトは彼女との結婚に反対だったのだが、これがモーツァルトの心に焦りを生んだ。多くの弟子を持ち、作曲依頼も受けていた彼だが、社会的には未だ無職のままだったのだ。
『結婚には承諾するが、これ以上父からの経済的援助を期待しないように』
翌日出された父からの手紙にはこう書かれていたのである。ヴィーンの宮廷に勤め口が無い事をサリエーリの妨害のせいだと訴え、父に理解をしてもらおうとした。この時期、彼は父への手紙にサリエーリの悪口を並べ立てる。その父は彼に同調しつつも、裏ではヴァルトシュテッテン男爵夫人に書簡を送り、モーツァルトに辛抱を促してもらうようにお願いしていた。
レーオポルトの展望では、高齢のボンノが死ねばサリエーリが宮廷楽長になり、副楽長のポストが空くので、そこに入る事が出来るだろうと思っていたのだ。つまり息子がサリエーリの補佐になる事を望んでいたのである。
一方モーツァルトは音楽的にはやる気に満ちあふれていた。毎週日曜日にスヴィーテン男爵のもとへ行き、ヘンデルとバッハの曲を演奏してその技術を取り入れ、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが従来とはまったく違う方式の曲を発表した事に感銘を受けて弦楽四重奏、通称
そんな時期に、わざわざサリエーリの悪口を繰り返したのは、他ならぬ父の気分を良くさせるためであった。
この父子は、お互いを誤解したまま、相手が嫌っていると思い込んでいるサリエーリの悪口を手紙に書いて送り合っていたのだ。この不幸なすれ違いも、後の世でサリエーリの名声を落とす原因になるのであった。
「参ったよ、父さんはサリエーリの事が大嫌いだから話を合わせないとさあ」
「それをわざわざ私に伝えるのか」
新しい劇場の開場準備と未知のフランス・オペラ作曲に追われて忙しいサリエーリが、自分の悪口を書いた手紙の事を無邪気に話すモーツァルトに呆れ、ため息をついた。
「父さんは僕を宮廷に勤めさせようとしてるけど、サリエーリを見てると大変そうだし、やりたくないよ。相変わらずはした金で公女様のワガママにも振り回されてるんでしょ」
「……確か八月の手紙に『サリエーリには公女にクラヴィーアを教えることなんてできませんよ!』と書いてあった気がするんだが」
モーツァルトが父に宛てた手紙で、サリエーリが自分の事を妨害していると訴えていた時にこのような事を書いていた。
「クラヴィーアの腕は僕の方が上でしょ。妨害されてるって事にしないと怒られるからさ……まあ、本当に腹を立てた事も何度かあるけど」
舌を出しておどけるモーツァルトの態度にひとまずは安心するサリエーリだったが、彼はモーツァルトの内心の葛藤に気付いていなかった。
モーツァルトが語った言葉は確かに真実だ。だが、いくら面倒な仕事は嫌だと思っていても、社会的に認められないという事実は、プライドの高いモーツァルトの心をさいなむ。手紙でサリエーリを悪く言ったのも、激情に任せて書いた本心が多く含まれていた。そんな自分がひどく惨めに思えた彼は、罪悪感からサリエーリ本人に手紙の事を伝えていたのだった。
かくして一七八二年も終わり、年が明けるとイタリア歌劇団の推薦名簿が皇帝に提出される。そしてダ・ポンテが正式にサリエーリの推薦でイタリア歌劇場の座付き台本作家になるのである。