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国粋主義者の執念

 一八二一年六月一八日、ベルリンの王立劇場にてカール・マリア・フォン・ヴェーバーの《魔弾の射手》が初演される。これが大成功を収めると、国粋主義者たちはドイツ派のシンボルとして同作品を担ぎ上げた。この年、《魔弾の射手》はドイツ圏で成功を繰り返し、一一月にはヴィーンでも大成功する。これによって勢いづく国粋主義者だったが、その夢は間もなく打ち砕かれる事になった。


 一八二一年末に、ナポリのサン・カルロ劇場支配人であるドメーニコ・バルバーイアがヴィーンで二つの劇場の監督権を取得し、ロッシーニの招聘を決定する。その為の準備として高齢の楽員を解雇し、イタリア・オペラ公演に備えたのだ。


 もちろん音楽家たちは反発した。しかし、ロッシーニの《湖の女》再演が一八二二年に行われ、大成功を収める。バルバーイアはこの先の興行が上手くいく事を確信し、ほくそ笑んだ。


「くそっ、どいつもこいつもロッシーニ、ロッシーニ! どこに行ってもロッシーニの曲が聞こえてくる。街角のパン屋の店員すらも、ロッシーニの歌を口ずさむ。頭が沸騰しそうだ!」


 ルートマーは町中がロッシーニのイタリア・オペラに熱狂している様子に怒りで気が狂いそうになっていた。もはや彼のような国粋主義者にとって、音楽の良し悪しなどは二の次であり(もともと人気でしか優劣を測れていないが)、イタリアが関わる何かしらのものにドイツが関わるものが勝つ事だけが望みとなっていた。


 だが、ロッシーニの勢いは止まらない。それどころか更に勢いを増していく。当時ヴィーンの実権を握っていた宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒがロッシーニを熱烈に支持したのだ。これにより国内の反体制派も国粋主義者と合流するのだが、彼等には絶大な人気を誇るロッシーニに対抗する術はない。


「バルバーイアがサリエーリ氏に音楽監督を依頼したと噂されていますが」


「ご冗談を、ディートリヒシュタイン伯爵。私はもう七一歳です。そのような契約は結んでいませんし、仮にそのような話がありましても断る所存でございます。今はただ少しでも長く宮廷への奉仕を続けたいと思っております」


 バルバーイアがヴィーンの二つの劇場、ケルントナートーア劇場とアン・デア・ヴィーン劇場の監督権を取得した時、何故かサリエーリが音楽監督を依頼されたという噂が流れた。これも後の悪意ある噂で彼を追い落とし、それをもってロッシーニにもダメージを与えるための布石である。


 一八二二年三月二二日、ロッシーニ夫妻がヴィーンに到着する。ヴィーンの大衆は熱狂的な歓迎をし、この大人気作曲家を一目見ようと沿道を人が埋め尽くした。


「ロッシーニの名声など今日明日続くかどうかに過ぎぬ」


 ある人物がこう言った。だが、その予測は完全に外れ、それから四ヶ月の滞在中ロッシーニの人気は衰える事を知らなかった。


 ロッシーニはヴィーンに到着すると、ケルントナートーア劇場で《魔弾の射手》を観劇した。その後四月一三日に同劇場で《ゼルミーラ》を上演すると、《魔弾の射手》はロッシーニの最新作ゼルミーラに完全に追いやられてしまった。


 そんなある時、ロッシーニに近づいて話しかける者がいた。


「ロッシーニさん、こんな噂はご存知ですか?」


 ルートマーは激しい執念により、あらゆる手段を尽くしてこの人気作曲家に近づく機会を得た。そして彼の耳元でサリエーリがモーツァルトを毒殺したと囁くのだった。




「ロッシーニか……弟子たちも皆彼を褒め称えているし、会ってみよう」


 ヴィーンを訪問したロッシーニはジュゼッペ・カルパーニの仲介でベートーヴェンに会う。その話を耳にしたサリエーリが、ロッシーニの人柄を見極めようと彼の滞在する家を訪ねたのだった。そのポケットには最近夢中になって作曲しているカノンの楽譜を忍ばせて。


 サリエーリはドイツ楽派である。その天敵とも言える存在だったロッシーニに対しても、彼は無暗に敵対せず自分の目で判断しようとしていた。既に一八一〇年代後半にサリエーリはロッシーニの音楽を宮中で幾度となく演奏していたのだ、音楽の才能については見極めるまでもなく認めていた。ただ、派閥の争いがあるので立場上ロッシーニの音楽を表立って賞賛するのははばかられていた。


「お目にかかれて光栄です、サリエーリさん! 《トロフォーニオの洞窟》をよく演奏させて頂いております」


 ロッシーニは笑顔で出迎え、サリエーリに敬意を表した。人柄の良い三〇歳のイタリア人に、初対面から好印象を持ったサリエーリは、ポケットから楽譜を取り出す。


「ヴィーンは君に熱狂しているよ。ところで、ちょうど四人いるね。実は最近カノンを作曲するのに凝っているんだ。歌ってみないか?」


 快く引き受け、見事な四重唱を披露するロッシーニ夫妻と仲間の歌手たちをその場で気に入ったサリエーリは、それから毎日のように彼の家を訪れるのだった。もはや派閥闘争への遠慮など彼の頭から消え失せていた。


 そんなある日、カノンを歌った後でロッシーニはサリエーリに質問する。


「あなたは本当にモーツァルトを毒殺したのですか?」


 その言葉を聞いたサリエーリは、姿勢を正してはっきりとした口調で答えた。


「私の顔を見てごらん。そんな事をするように見えるかね?」


「いいえ、全然そうは見えません」


 ロッシーニは安心したように息をついた。だが、そんな質問をされたサリエーリは心の中で自問する。


(私がモーツァルトを毒殺などするはずがない。……だが、彼の早逝に責任がないと、本当に言えるのだろうか?)


 モーツァルトに安定した生活をさせる事ができたのではないかという思いは、この三〇年間ずっと彼の心でわだかまっていたのだった。もしあの時、初めてモーツァルト父子がヴィーンを訪れた時からやり直せるとしたら。


 そんな非現実的な妄想にふけってしまうのも、自分の死期が近づいているからなのかもしれないと、寂しく笑うサリエーリだった。

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