「モーツァルトの曲は最高だ。こんな素晴らしい音楽が三〇年も前にあったなんて」
一人の男がいた。
彼の名はユーリウス・ドリアルト・ルートマー。ヴィーンに生まれ、それなりに裕福な家庭に育った彼は、ピアノ奏者として宮廷楽団入りを目指していた。だが、彼には残念ながら大した才能が備わっていなかったため、単なる町の音楽愛好家の一人にしかなれなかった。
そんな人物が次に拠り所にするのは、自分が尊敬する人物と自分の共通する属性である。彼は今まさにブームを起こしているモーツァルトの事を尊敬していた。この音楽が作られたのがずっと昔である事実が、より一層モーツァルトを褒め称え、神格化までしてしまう理由となっている。その上素晴らしい事に、彼はドイツ人だ!
ルートマーは国粋主義に傾倒し、イタリア音楽よりもドイツ音楽の方が優れていると考えていた。繰り返すが、彼には才能がない。だから、成功しているものが素晴らしいという判断をしていた。ドイツ・リートで大成したシューベルトや、ヴィーン古典派の再興で名を馳せたベートーヴェンを誇りに思い、同じくヴィーン古典派であるモーツァルトの再評価ブームに気をよくしていた。
「こんなに素晴らしい音楽を作っていたのに、何故モーツァルトは宮廷楽長にならなかったんだろう?」
宮廷楽長はイタリア人のサリエーリ。彼は音楽的にはドイツ派閥だが、ジングシュピールの名作もないしドイツ語もろくに話せない。五〇年もヴィーンに住んでいるというのに。
「サリエーリは何故モーツァルトではなくヴァイグルやアイブラーなんかを後継者にしたんだ。あんなひどい音楽を作る連中を」
この時期にはヴァイグルが作るドイツ音楽は古臭く時代遅れのものとなっていた。とはいえドイツ派閥の重鎮であるし、実力的にも才能の無いルートマーが批判できるような相手ではない。彼は才能が無いから、現在の人気を相手の実力だと思うのだった。
ともあれ、ルートマーはモーツァルトが出世できなかった理由を音楽以外に求め、資料を探した。
それは、完全な偶然である。ある、ルートマーと同じく国粋主義者の貴族が、生前のモーツァルトと父の間でやり取りしていた手紙を見た。モーツァルトの未亡人であるコンスタンツェが一八〇九年に再婚した相手、デンマークの外交官ゲオルグ・ニコラウス・フォン・ニッセンがモーツァルトの書簡や楽譜などの資料を集めていた、その時に少し手伝ったのだ。ニッセンもかなりのモーツァルトファンだった。
手紙の一通には、こう書かれていた。
『サリエーリがせいぜい苦労してできることといえば、誰か別の人を推してこの件で僕の妨害をすることだけです――奴ならやりかねません』
公女の教育役になれなかったモーツァルトが父親に送った、言い訳の手紙である。彼は自分の結婚を父に認めさせるために名誉ある仕事を欲していたが、上手くいかなかった事をサリエーリのせいにする事で誤魔化していたのだ。
「サリエーリが、モーツァルトの邪魔をしていた……そうか、それなら全ての説明がつく!」
手紙の事を聞いたルートマーは想像を膨らませる。素晴らしい音楽を書くモーツァルトは、当時既に宮廷で実権を握っていたサリエーリの下へ自分の楽譜を持って訪ねた。だがその楽譜を見たサリエーリは、あまりの素晴らしさに危機感を覚える。もし彼が宮廷に入り込んだら、自分の代わりに皇帝の寵愛を受ける事になるだろう。
モーツァルトの天才ぶりに嫉妬したサリエーリは、あの手この手で彼の出世を妨害する。そのせいで綺羅星の如き名曲の数々はほとんど世に出る事のないまま眠らされてしまったのだ。
以上のような妄想を完全に事実だと思い込んでしまうルートマーだが、更に新たな情報を得る。
「モーツァルト夫人の証言によると、モーツァルトは死の少し前から毒殺に怯えていたそうだ。依頼者不明の
「そうか、その依頼者は正体を隠したサリエーリだ。そして密かにモーツァルトに毒を盛ったんだ」
なんとかしてモーツァルトの出世を妨害しようとしたサリエーリだったが、それでも天才を完全に封じ込める事はできなかった。グルックの死により空席となった宮廷室内作曲家に任命され、ジングシュピールやイタリア・オペラ、そして協奏曲などで頭角を現し始めた彼を脅威に思ったサリエーリは、ついに毒殺という強硬手段に出るのだ。
ルートマーの妄想は止まらない。彼の中で生み出された陰謀の物語は、日に日に具体的になっていき、現実味を帯びてきた。
そして、ついに彼は周囲の人間に漏らしてしまう。
「私は、大変な秘密を知ってしまったかもしれない」
そう言ってとんでもない陰謀論を語るルートマーだったが、さすがに周りの国粋主義者たちも馬鹿げた妄想だと思い、一向に信じなかった。
だが、事態は一変する。
イタリア人のロッシーニがヨーロッパ中に名を轟かせ始めたのだ。ドイツ派閥にとっては滅亡の危機とも言えるほどに、彼の登場は圧倒的なインパクトをもたらした。世に名だたる天才たちがこぞって彼のオペラを褒め称えるのだ。サリエーリの長年の尽力によって耳の肥えた大衆たちも、ロッシーニのオペラに熱狂する。ヴィーンは、完全にイタリア・オペラ一色の状態になってしまっていた。
「ルートマー、この間話していた秘密をもう一度教えてくれないか」
ロッシーニはあまりに強大すぎて手が出せない。強力な味方になり得るはずのベートーヴェンはドイツとイタリアの争いに中立を決め込んでいる。ドイツ派期待の星であるシューベルトはロッシーニを絶賛している。どうにかドイツ派閥がイタリア派閥に反抗する手立てはないかと考えた結果、すっかり衰えた、それでいて音楽界の頂点に今もなお君臨し続けるイタリア人を見つけた。
「真実などどうでもいい。イタリア人からヴィーン音楽界を取り戻すんだ」
ルートマーに話を聞くドイツ派閥の貴族は、この話を面白おかしく人々の耳に噂という形で届ける事にした。
全ては、イタリア音楽をヴィーンから排除するために。