一八一六年、サリエーリは歌唱教本の制作に着手していた。この時はヴィーン音楽愛好家協会の依頼で教本を作る事になったのだが、多くの弟子を持つサリエーリは、この機会に自分の指導法を確立し、本にまとめて声楽教師が使うテキストにしようと考えたのだ。同時に約二七〇人ほどで構成される愛好家協会合唱団の指導および指揮を依頼され、多くの人間に教育を施す方法について考えていた。
そして翌年、サリエーリが設立に協力したヴィーン楽友協会に、またサリエーリが運営する『歌学校』が設立された。最初はサリエーリが教える声楽の教室のみで、生徒は一二人。翌年には四〇人に増え、さらにその次の年には器楽の教室も開講した。
器楽の教室が出来たので、歌学校からヴィーン楽友協会音楽院となる。これが後にヴィーン音楽院と名前を変え、ヴィーン音楽アカデミーとなり、現在ではヴィーン国立音楽大学となっている。
このヴィーン国立音楽大学は現代において世界でもトップクラスの音楽大学であり、特に指揮科は世界最高峰と言われ、多数の世界的な指揮者を輩出しているのである。
サリエーリはこの歌学校設立に際して一八箇条の起草文を書き、学校のトップマネジメントをサリエーリが行い、教師たちはサリエーリの定めた歌唱教育のメソッドに準拠するように定めたのだった。
その頃
シューベルトもロッシーニに夢中だった。サリエーリは歌手の技巧や即興に頼るその音楽を手放しで賞賛する気にはなれなかったが、当のロッシーニはサリエーリの《トロフォーニオの洞窟》の曲をよく演奏するなど、彼を尊敬していたそうだ。後にロッシーニがヴィーンを訪れた時にはサリエーリも彼の才能と人柄に惚れこみ、すぐに気に入ってしまう。サリエーリはロッシーニの四ヶ月の滞在中毎日のように彼を訪ね、作曲したカノンを歌わせていたという。さすがのロッシーニも『果てしないカノン責めに「もうやめて」とお願いした』と後に語る。
ロッシーニの人気が高まり、またモーツァルトの再評価が進んだことでイタリア・オペラ派とドイツ・オペラ派の対立が激化する。最終的にはロッシーニの存在によってイタリア・オペラ派が勝利するのだが、ドイツ・オペラ派の人々にはヴィーンの国粋主義者も多く、彼等は音楽以外の部分でも激しい抵抗を繰り広げるのだった。
一方サリエーリは国内で多くの音楽家とその家族が貧困に喘いでいる事に心を痛めていた。ヴィーン音楽家協会は構成員の未亡人や遺児に年金を支払っていたが、この構成員になるためには入会金と年会費を払う必要があり、それが出来ずに協会に入れず、死後未亡人や遺児に支援がなされないという音楽家が少なくなかった。
特にモーツァルトが生前会費を払えない事から協会に入れなかったため、コンスタンツェと子供たちが年金を受けられなかった事を気に病んでいたサリエーリは、多くの未亡人や遺児が皇帝や宮廷に支援を訴える嘆願書に証明書を書いていた。彼は数十年にわたってこの活動を続けていたのである。
サリエーリももう七〇歳になる一八二〇年、自分の死を強く意識するようになってくる。この年の夏ごろから健康状態が悪くなってきた。不眠や通風、目の炎症などに苦しめられる日々だ。
「そろそろ私も天に召される時が近づいてきたようだ。それまでに少しでも多くの才能を育て、可哀想な人たちを一人でも多くその境遇から救いたい。それが自己満足に過ぎないとしても」
当時の平均寿命は男性が三六歳から四〇歳ぐらいだった。もうその倍近く生きたサリエーリは、既に死を受け入れる覚悟もしていたのだった。翌年の三月には遺書を作成し、ハインリヒ・フォン・ハウグヴィッツ伯爵を執行者に指定する。
『閣下がこの手紙を受け取られるとき、神はこれを書いた者をお召しになっている事でしょう。本状に添えましたのは私の《レクイエム》のオリジナルで(中略)私的に礼拝堂で演奏して頂くべく、寄贈させて頂きます』
ハウグヴィッツ伯爵宛ての書簡にはこのように書かれており、彼が以前自分のために作曲した《レクイエム》の楽譜が託された。
こうして終活を始めたサリエーリだが、ここにきて思いもよらない噂が巻き起こり、ヨーロッパ中を巻き込んだ巨大な悪意に飲み込まれていくのだった。
――サリエーリはモーツァルトの才能に嫉妬し、毒殺したのだ。