少々時間が遡り、シューベルトが寄宿学校に入ってから約三年後の一八一一年、彼は学校オーケストラの副指揮者となっていた。
シューベルトが作曲したいくつかの作品を見たサリエーリは、すぐに彼が特別な才能を持つ人物だと確信する。
「シューベルトに個人的な教育を施したいのだが、特別に外出の許可を与えて貰えないだろうか?」
寄宿学校は外出禁止である。だが帝室主席宮廷楽長であるサリエーリが強く希望すると、学校としても特別に許可を出さないわけにはいかなかった。何より、ヴァイグル、ジュースマイヤー、フンメル、そしてベートーヴェンといった偉大な作曲家たちを育ててきたサリエーリが、進んで規律を破るほどに惚れこんだ才能の持ち主ならば、積極的に伸ばすべきだと貴族たちも期待と共にその行く末を見守る事にしたのだ。
これにより、シューベルトは週に二回サリエーリの家でレッスンを受けられるようになった。シューベルトが受けた最初のレッスンは一八一二年六月一八日、対位法の勉強から始まった。
対位法とは、複数の旋律を互いに独立しながら調和させる技法である。まずサリエーリが書いた旋律を与え、それに対旋律を付けさせて添削するというレッスンを施した。その後メタスタージオの詩に曲を付けさせてそれを評価し指導をする。これはベートーヴェンにも行った指導法だ。
また、グルックのオペラ総譜を初見でピアノ演奏させて初見演奏の技術を教えると共に、過去のオペラを学ばせるのだった。
「さあ、休憩がてらグラーベン通りにアイスを食べに行こう」
サリエーリはシューベルトを他の弟子たちと一緒に行きつけのアイス屋へ連れて行った。彼は甘い物が好物なので、弟子に食べさせるという名目で自分が食べに行く口実を作っていたのだ。
またよく弟子たちを連れてハイキングにも行った。かつてモーツァルトと共に歌ったように、弟子と一緒にカノンを歌うサリエーリは、とても楽しそうな笑顔を見せるのだった。
サリエーリは貧しい者と才能ある者には特に親切で、無償でレッスンを行ったりこうして遊びに連れて行ったりしていた。そうして恩を受けた弟子たちは、みな彼の事を「パパ・サリエーリ」と呼んで慕っていたのである。
シューベルトは自分の習作|(練習のために作る作品)には『ヴィーン帝室主席宮廷楽長サリエーリ氏の生徒』と律義に書き記し、生涯サリエーリを慕っていた。だが、彼はドイツ・リート(ドイツの歌曲)に興味を持っていき、イタリア語の歌曲を学ばせたいサリエーリの思惑とは外れた道で天才を発揮するのだった。
さて、ヨーロッパの音楽界には各言語ごとに派閥のようなものがあった。自分の母国語で作った歌を主流にしたいと思うのは当然の事なのだが、ドイツ語圏であるヴィーンではずっとイタリア・オペラが主流であり、ヴィーン音楽界の頂点に立つのはイタリア人のサリエーリだった。それも、彼は歴代の宮廷楽長と比べて非常に長くその座に居続け、彼の弟子たちは皆非常に強い愛情を持って様々な場所でサリエーリを持ち上げた。仲違いしたはずのベートーヴェンは慈善演奏会で副指揮者を務めたサリエーリに対する感謝の辞を新聞に載せた。
ドイツ派閥としては、実に面白くない状況である。サリエーリ自身は音楽的にはドイツ派閥に属していたのだが、しかし半世紀もヴィーンで暮らしているのに一向にドイツ語が話せるようにならない。イタリア語の歌曲ばかり作る。それも不愉快だ。
そこにサリエーリの愛弟子シューベルトがドイツ・リートで大成功を収めると、彼等はこぞって騒ぎ立てた。
「サリエーリの教育はシューベルトの才能の形成にまるで寄与しなかった。むしろ余計な事を教えて天才の成長を阻害した」
シューベルトは自分が教師になる一八一四年まで個人レッスンを受け、その後もサリエーリの家に通って学び続けた。一八一六年六月一六日には、サリエーリのヴィーン生活五〇周年を祝う祝典が行われ、シューベルトは祝典カンタータ
その後もサリエーリに尊敬の意を表し続けたシューベルトだが、周囲の者達はそれが実に気に食わない。繰り返し上記のような非難をし続けるのだった。
サリエーリはシューベルトも無償で教えていた。同様に才能ある者には無償で教えるという事を繰り返していくうちに、弟子の数がどんどん増えていく。自分の確立した指導法で全ての才能ある者を教えていきたいが、さすがに一人で全員を見ることはできなくなっていった。当然である。最高の教師が無償で教えてくれるのだ、希望者が増え続けるのは自明の理と言える。
そこで彼が取った行動は、学校を設立するというものだった。