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サリエーリの願い

 サリエーリは一八〇七年一一月、フランツ皇帝に帝室管楽合奏団の再編成を請願する。そのための楽器購入など、簡単ではない様々な準備を精力的に行っていった。


 その楽器購入の交渉を宮廷音楽監督官クエフシュタイン伯爵と進めているさなか、一八〇八年三月二七日に音楽家協会がハイドンの《天地創造》イタリア語版をヴィーン大学講堂で初演し、まもなく七六歳になるハイドンを招いてサリエーリの指揮で演奏が行われたという。


 四月には帝室管楽合奏団のための楽器購入が許可される。


 その年の夏、新たな出会いがあった。帝室宮廷礼拝堂少年合唱団に二名の欠員が出て、団員を補充することになった。これに応募する一一歳のフランツ・シューベルトが父に連れられてサリエーリを訪ねたのだ。


 一〇月一日付で入団したシューベルトは、帝室王立寄宿学校で暮らす事になる。指導者は宮廷楽長サリエーリと副楽長アイブラーだ。サリエーリはシューベルトの才能に惚れ込み熱心に教えるのであった。


 さて、その年の一二月二二日。ベートーヴェンが交響曲第五番と六番に加え《合唱幻想曲》をアン・デア・ヴィーン劇場で初演するのだが、これを事前に知ったサリエーリは初演の日を再考するよう促した。なぜならその日は音楽家協会の慈善演奏会の日で、その責任者はサリエーリなのだ。


 慈善演奏会は音楽家の未亡人と孤児のための基金集めを目的としている。サリエーリ自身も孤児であったし、ガスマンやモーツァルトの未亡人を慰めてきた。彼にとって特別に思い入れのある演奏会であり、またこれに参加する事は当時の音楽家にとって大変名誉な事でもあった。


 だが頑固なベートーヴェンは自分の音楽会を強行する。その上妨害されたと言ってサリエーリを非難し、一方的に絶縁宣言をするのだった。


 その翌日には慈善演奏会の二日目でベートーヴェンのピアノ協奏曲が演奏されている。サリエーリは気難しいベートーヴェンに困りつつも、変わらず尊重するのである。




 翌年五月一二日、ヴィーンは侵攻するフランス軍に降伏した。フランス占領下でもサリエーリは変わらず宮廷楽長として職務を続けるが、彼の興味はヴィーン音楽界全体の水準向上に向かっていた。レーオポルト二世の時代からサリエーリは政治に深く関わりを持たないようになり、ただ音楽界を進歩させる事だけに邁進まいしんしていったのだ。


 なので八月一五日にはナポレオンの誕生日を祝した聖シュテファン大聖堂での演奏を監督し、慈善演奏会も変わらず指揮していく。


 そんな彼は、音楽界の現状に頭を悩ませていた。


「最近、オーケストラの弦楽器パートの水準が低下してきている。誤った奏法が技術の低い奏者に流行しているせいだな。遊び心は基礎を身に付けた後で盛り込むものだというのに、まったく」


 有名なヴァイオリニストが聴衆を楽しませるために冗談でやった奏法が流行ってしまい、真っ当な奏法を知らない奏者まで出てしまう事態になっていたのだ。サリエーリは問題点を指摘する書簡を宮廷劇場監督に送った。


 その後も変わらず音楽活動を続けるサリエーリは、一八一二年にはヴィーン楽友協会の設立にも協力する。


 翌年にはナポレオンが敗走し、サリエーリはナポレオン戦争で死んだオーストリア兵の未亡人と孤児の救援を目的とした慈善演奏会を一一月一一日と一四日に行い、ヘンデルの《ティモテウス》が七〇〇人を越える合唱団によって歌われた。


 この年、ヴィーン在住の発明家ヨハン・ネーポムク・メルツェルが発明した、メトロノームの前身となるクロノメーターという器械に関心を示したサリエーリは、積極的に利用し、国際的普及にも貢献する。ハイドンの《天地創造》にこのクロノメーターを使い、総譜に全てのテンポを書き入れた。これによってクロノメーターの有用性が世に広まったのだ。


 いかなる天才も、それを理解する者がいなくては世にでない。同様にいかなる大発明も、それを認める者がいなければ世にでることはないのだ。過去の経験からそれを痛感したサリエーリは、良いと思ったものは積極的に宣伝するようになっていた。


 クロノメーターの普及により、音楽のテンポを楽譜に書き入れて、作曲家が意図するテンポが記号として残せるようになった。そしてクロノメーターが進化して生まれたメトロノームは、現代においても非常に多くの人々が利用している。


 この発明をしたメルツェルは、前述の慈善演奏会に刺激され大規模な傷病兵救済慈善演奏会を企画する。演奏されるのはベートーヴェンの新作交響曲戦争交響曲だ。一二月八日、ヴィーン大学ホールでベートーヴェンの指揮にて行われ、ヴィーンの著名な音楽家が参加した。サリエーリは副指揮者を務め、打楽器の奏者や大砲手に合図を送った。


 そう、この時には既にベートーヴェンと和解しているのである。


 このように、サリエーリは様々な活動を行い、個人の成功よりも音楽全体の発展を願い、尽力するようになっていたのだった。

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