サリエーリの噂が広まるにつれて、それを否定する者も増える。サリエーリの担当である医師や看護人たちはもちろんのこと、モーツァルトの病状を調べ、死因について所見を述べる高名な医師エドゥアルト・グルデナー・フォン・ローベスもいた。警察長官ヨーゼフ・ゼードルニツキー伯爵すらも疑惑を作り話と断定したのだ。
だが、どんなに論理的な反論が行われようと、人々は自分の信じたいものを信じるものだ。天才モーツァルトが若くして亡くなってしまった事を惜しむ気持ちや、単にその方が面白いという理由から毒殺説は根強く残り続けるのだった。更にはサリエーリがモーツァルトの曲を盗作したという者まで現れた。その根拠は二人の音楽の類似性である。
二人の音楽に類似した部分が見受けられるのは、モーツァルトがサリエーリの影響を強く受けたからである。だが、時系列も考えられない陰謀論者はこれこそが盗作の証拠であると、堂々と言って回ったのだった。
一八二四年六月六日、サリエーリはヴィーン宮廷楽長の任を解かれ、後任に楽長補佐のアイブラーが就いた。前宮廷楽長ボンノとまったく同じ解任だが、本人の病状だけでなく悪しき噂が広がっていた事もこの決定に少なからず影響していた。
しかし、サリエーリにとってこの事はもう気に病むような事でもなくなっていた。病院で日に日に悪化していく自分の病と向き合いながら、彼はこれまでの人生を振り返る。やはりモーツァルトに関する後悔の念もあったが、何よりも自分に幸福な人生を送らせてくれた音楽への感謝と、自分に音楽を教えてくれた師匠たちを敬う気持ち、そして自分が教えた者たちの成長と音楽界の未来への希望が、彼の心を満たしていたのだ。
「最後はケチがついたが、いい人生だった」
彼は満足そうに呟くと、目を閉じた。
――気がつくと、サリエーリは見た事のない場所に立っていた。
周囲を見渡すと、何も無い白い世界が広がっている。足元はフワフワと、まるで雲の上を歩いているようだ。自分の姿を見ると、入院時に着ていた患者衣のままだ。だが、身体の肉付きがよくなっているのに気づいた。今なら歩けそうだ。まず一歩踏み出した。
麻痺していたはずの両足が、動く。身体が軽い。どこへともなく歩いていくと、頭上から高く、力強い歌声が聞こえてきた。
「……グルック先生。どうやらあなたが正しかったようです」
その声は何者よりも高いところになければならない。かつて師の語った言葉だ。サリエーリは自分の現状を理解する。彼はかつての師と同じ場所にやって来たのだと。
突然、背後から声がかかった。
「だからそう言っただろう?」
その瞬間、景色が一変する。雲のようだった足下に大地が現れ、花が咲き誇っている。空はどこまでも青く、さんさんと輝く太陽は心地よい光を照らした。目の前にはみずみずしい果実をつけた木が立ち並んでいた。天からの歌声は更に力強さを増した。
振り返ると、そこには出会った当時の姿をしたグルックが笑顔で立っていた。
「遅かったじゃないか。ずいぶんと長く頑張ったな」
更なる声が右手からかかる。
「ガスマン先生!」
そちらに目を向ければ、やはり出会った当時の姿をしたガスマンが頷いている。その背後には若かりし頃の妻テレージアが、彼女と同じく先立った息子アーロイス・エンゲルベルトと共に手を振っている。
懐かしい面々との再会に涙を浮かべるサリエーリに、今度は左手から威厳ある声が聞こえた。
「待ちわびたぞ、サリエーリ。余はもう我慢ができぬ。一緒にお主の曲を演奏しようではないか」
そちらにはヨーゼフ二世がピアノの前に座って腕を組み、口角を上げて笑う。
「ああ、皆待っていてくれたのですか。ずいぶんと長く待たせてしまって申し訳ありませんでした」
ずっと会いたかった人達の顔を見て、喜びと共に涙をこぼすサリエーリ。そして、背後からもう一つの声。
「リーバー・パパ! やっと来たね。パパの好きなお菓子が沢山あるよ、一緒に食べよう!」
サリエーリは歓喜に打ち震えながら振り向き、その姿を目に映す。
それは、初めて会った日の一六歳の姿ではなく、共に笑い合った三〇代の頃の姿をしたモーツァルトだった。
「モーツァルト……君と歌うために新しいカノンを沢山作ったんだ。さあ、皆で歌おう」
サリエーリは晩年夢中になって作ったカノンの楽譜をどこからともなく取り出し手に持った。周りを囲む人々が満面の笑みでそれを歌いだす。サリエーリはモーツァルトと肩を組んで、指揮をしながら自分も歌うのだった。
彼等の歌う見事な四重奏のカノンは、いつまでも続くのだった。そう、いつまでも……
一八二五年五月七日午後八時、アントーニオ・サリエーリは老衰により死亡した。
彼の亡骸はマッツラインスドルフ墓地に埋葬され、新宮廷楽長アイブラーをはじめ多くの名士が参列した。六月二二日には弟子たちがサリエーリの