さて、彼の死後もモーツァルト毒殺の噂は消えない。モーツァルトの二人の息子は揃ってこの疑惑を否定するが、それすらも聞き入れられず、「サリエーリ自身が最後の時に真実を告白したにもかかわらず」否定しているとまで言われる。もはや人々にとってサリエーリが罪を告白したという妄想は確固たる真実へと変わってしまっていたのである。
そして、後世にこの疑惑を伝える最も大きな役割を果たしたのは、ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンである。彼はサンクトペテルブルクの外交官からサリエーリのモーツァルト毒殺説を聞き、劇詩『モーツァルトとサリエーリ』を書いた。書き終えたのは一八三〇年一〇月二六日だという。
凡庸な作曲家が天才に嫉妬して毒杯を与える物語だ。これが後にオペラ化され、それをもとに一九七九年一一月二日、ピーター・シェーファーによる劇『アマデウス』がロンドンのロイヤル・ナショナル・シアターで初演される。これは一九八四年に映画化され、世界に広まるのだった。
劇『アマデウス』の内容はこうだ。
冒頭、好物の甘い物を届けにやってきた召使いたちが、ドアの奥で異様な物音とうめき声を聞きつける。ドアを押し破って入った先には、ナイフを手にした老人が血まみれになって仰向けに倒れる。これはサリエーリがナイフで自分の首を斬ったという噂を再現したシーンである。
精神病院に収容されたサリエーリの懺悔を聞き、魂の救いを与えようとやってきた若い神父の前で、彼は回想を始める。
一七八〇年代のヴィーン宮廷。若い娘といちゃつき、下品な言葉を発してふざけまわる小男、それがかつて神童の名を欲しいままにしたモーツァルトであることを知ったサリエーリは驚く。そしてモーツァルトが作曲したセレナードの曲を聴いた彼は、更なる衝撃を受けるのだった。
自分が密かに愛する女流歌手を難なくものにしてしまうモーツァルト。何のよどみもなく楽譜を書いていく彼の天才ぶり。ひたすら敬虔に神に仕え、童貞を守り続けた自分にその才能を与えず、こんなふしだらな男に与えた神を恨み、決然と反旗を翻すサリエーリだった。
モーツァルトの異色のオペラ《ドン・ジョバンニ》の中にモーツァルトが持つ父への屈折した思いを見て取ったサリエーリは、彼の父親コンプレックスを利用して若きライバルを死に追いやる事で、彼に才能を与えて自分に与えなかった神に復讐しようと決意するのだ。
モーツァルトの父レーオポルトが身につけた仮面を利用して匿名で《レクイエム》を注文し、その完成を待って作曲者を殺害する。そして自分が彼の死を悼んで作曲したとして《レクイエム》を彼の葬儀で披露し、不朽の名声を得る事が神への復讐になるという計画だった。
だがその計画はとん挫する。モーツァルトは生活苦によって心身をすり減らし、宮廷劇場ではなく場末の劇場で上演された《魔笛》の演奏中に倒れたのだ。慌てたサリエーリは彼を手伝い《レクイエム》を完成させようとするが、モーツァルトは力尽き果てて死んでしまうのだった。
「まさかサリエーリが僕のオペラを観に来てるとは思わなかった」
「私が君の舞台を観ないはずがないだろう」
「ごめん、ずっとサリエーリの事を誤解していた。観に来てくれてありがとう」
こんなやり取りをして死んでいったライバルの姿に、ずっと罪の意識を持ち続けていたというのが『アマデウス』で描かれたサリエーリである。
プーシキンの『モーツァルトとサリエーリ』、シェーファーの『アマデウス』。この二つがサリエーリを偉大な作曲家から天才に嫉妬する凡人へと変えたのだった。もちろん彼の故郷であるイタリア・レニャーゴの人々は不快感を示した。当然だ。地元から誕生した偉大な作曲家を、嫉妬に狂って天才を毒殺しようとした凡庸な作曲家として描かれたのだから。
だが、シェーファーの『アマデウス』はもう一つの重要な役割を果たした。当時の国粋主義者たちが広めた悪評によって、彼の生み出した数々の曲ごと人々の記憶から消し去られていたサリエーリの存在を、世界中の人々に知らしめたのである。『アマデウス』によってサリエーリの名を知った人々は、天才モーツァルトの邪魔をしたというこの人物について詳しく調べたいと思うようになる。そして、実際の彼を知ると驚きと共に彼の悪評を払拭したいという気持ちを持つのだ。
そう、今あなたが読んでいるこの物語を、世に公開しようと思い至った筆者のように。
そして二〇〇〇年、サリエーリ生誕二五〇周年の節目に、レニャーゴの地でアントーニオ・サリエーリ・フェスティバルが開催され、彼の評価復興の狼煙が上がるのだった。
生前十分な評価を得られなかったモーツァルトは、死後一〇年ほどで再評価された。サリエーリは生前評価され、死と共に評価を失ったが、一二五年の歳月を経てついに再評価されるに至ったのである。