軒轅翊は陸依霜を監視する者を残すと、宮殿へ戻り政務を執った。
その後も彼女が移動する度、彼は公務の隙を縫って常に一定の距離を保ちながら後を追った。
気づかれなければそれで良かった。
夜隠は陸依霜の手を握りながら、苛立ちを募らせる。
殺し屋頂点とはいえ、軒轅翊の数多の隠密には抗えない。
ましてや無実の者を殺せば、陸依霜を怒らせてしまう。
彼女を悲しませたくなかった。
こうして夜隠は気づかぬふりをし、常に彼女の影のように寄り添い続けた。
五年が過ぎ、安安は聡明な少年へと成長した。
誕生日の宴の席、彼は箱を抱え陸依霜のもとに現れた。普段は冷静な彼も、明らかに動揺していた。
「母上、この贈り物を受け取って良いでしょうか?」
陸依霜が開けた箱の中にあったのは――五匹の竜が絡み合う伝国の玉璽だった。
ガチャリ。
彼女は驚きのあまり箱を落とした。
「これは誰が贈った? 君はあの者と知り合いなのか?」
その正体は明白だった。
もう二度と現れぬと信じていた男が、またしても姿を現した。
夜安は俯きながら答えた。
「軒轅と名乗る忘年の友が…帝王学を教えてくれた方です。まさかこんなものを贈るとは…何か悪いことしましたか?」
陸依霜の胸に怒りの炎が燃え上がる。
諦めてはいなかったのか?
後から恐ろしい推測が脳裏をよぎる。
息子を手懐け、自分を宮中へ戻そうと企んでいるのでは?
彼女は袖に隠し弓を仕込み、外へ駆け出した。
「案内しなさい! 今すぐ軒轅翊の元へ!」
道案内を待たず、軒轅翊が姿を現す。康海は退位の詔書を手にしている。
「詔(みことのり)が下(くだ)る。皇后陸氏は淑徳を有し、嫡子夜安は天より聡明を賜る。ここに帝位を譲るものなり――民を愛する明君たれ」
康海が高声で読み上げると、跪く者たちが波のように広がった。
彼は目を細め、夜隠の刃のような視線など全く意に介さず、詔書を夜安の手に押し込んだ。
「皇后殿下、皇子殿下、御慶(ぎょけい)の至(いた)り。即位の儀は整っておりますぞ」
陸依霜の怒りは頂点に達し、衆目の中で軒轅翊の頬を平手で打つ。
「狂人! 安安はあなたの子ではない! 私が皇后だと?」
夜隠の影が軒轅翊の喉元に刃を突きつける。
「詔を取り消せ。我ら一家はお前とは無関係。さもなくば殺す」
軒轅翊はかすかに笑った。
「既に天下に布告した。彼に帝王の素質ありと。拒否は許さん」
「陸依霜…とっくに俺は狂っている。手段など選ばぬ…永遠にお前の傍にいる」
誰も反応できぬうちに、夜安は連れ去られ帝位に即(つ)いた。
新帝即位、天下(てんか)に赦(ゆる)しあり。
陸依霜が現実を受け入れたのは、これが夜安自身の選択と知ったからだ。
幼い帝位ながら彼は補佐官の賞賛を浴び、その才覚は誰も侮り得なかった。
山間の小舎(こや)、夜隠は陸依霜の手を取り剣術を教えていた。
隣家の軒轅翊が佇(たたず)んでいても、彼女が振り返ることは決してなかった。