遊女の解散が決まったと噂が広まってから、
霧島清次も、私のもとへ誰かが密かに「連れて帰りたい」と言いに来ていることを知っていた。
けれど、彼は一度も問いただしてこなかった。
何の牽制も、独占の言葉もなかった。
まるで、私が誰にもついて行かないと信じ切っているかのように——。
彼は私の耳たぶを軽く噛んだ。
私は顔を背けて避ける。
彼は鼻で笑った。
「……気の強い女だな。けど、明華内親王と結婚しても、俺たちの関係は変わらない。京の郊外に屋敷を買った。あれは俺たちの家だ。」
——彼は、あの年の縁側に置かれた桜の枝を忘れてしまったのだろうか。
——二年前、私を再び見つけ出し、まるで宝物のように抱きしめたその時、
彼はこう言っていたはずだった。
「紅葉。戦が終わったら、お前を迎えに行く。」
……彼が本当に娶りたかったのは、名門・櫻庭家の嫡女だった。
今の私は、ただの遊女に成り下がってしまった。
誰もが私を見捨てることができる。
でも——私だけは、私を諦めてはいけない。
私はにこりと微笑み、素直に彼の胸に身を預けた。何も言わずに。
霧島清次は知らない。
私が彼に会いに来る前、北条信堅という大将に伝言を託していたことを。
——私は彼に約束した。
霧島清次と明華内親王が盛大に結婚式を挙げるその日、
私は北条信堅とともに堺港へ向かい、結婚すると。
この地獄から逃げ出す術は、もはやそれしかなかった。
今回の戦で大勝を収めた者たちには、気に入った遊女を一人、連れて帰る特権が与えられた。
北条信堅が私を選び、そして——彼が悪い人ではなかったのが、幸いだった。
やがて、朝廷からの使者が到着し、将軍たちは一足先に京へ戻って褒美を受けることになった。
その夜、霧島清次は公家衆を集め、主陣幕で宴を催した。
盃が交わされる中、誰かがふと口にした。
「そういえば、“櫻庭紅葉”って、ここにいるんだって?」
その名に、周囲の男たちは顔を見合わせ、浮ついた笑みを漏らした。
「かの“京都のさくら”だろ? 書も絵も舞も一流だって聞く」
「どうせなら、一つ舞でも見せてもらおうか。……場も華やぐし」
ただ舞を見たい——と。
霧島清次に、それを断る理由はなかった。
私が体に薬を塗っていると、舞衣が届けられた。
それは、ほとんど透けて見えるような布地で、身体をかろうじて覆う程度のものだった。
私の体には、霧島清次が残した青痕がいくつも浮かんでいた。
それを隠すこともできない衣だった。
私は黙って衣を手に取ったまま、動かなかった。
すると、帳の外から男の声がした。
「どうした? 着られねぇのか? 兄さんが手伝ってやろうか?」
「……踊れません」
彼は驚いたようにしばらく黙った後、帳を踏み越えて入ってきた。
「霧島少将様の命令だぞ。お前、逆らう気か?」
「ええ」
私は枕の下から、霧島清次がかつて私に「護身用」と渡してくれた脇差を取り出した。
そして——躊躇なく、自分の太ももを突いた。
真っ赤な血が勢いよく噴き出す。
私は静かに言った。
「……踊れないと言ったのよ」
男は真っ青になって逃げるように帳を出ていき、すぐに霧島清次のもとへ報告した。
宴を終えて戻ってきた彼は、身に纏う空気すら冷えていた。
私の手当もされていない傷を見つめ、しばらくの間、黙っていた。
そして低く、押し殺した声で言う。
「……もう昔とは違うんだ、紅葉。ただの舞ひとつ。それを断れる立場だと思っているのか?」
私は天井を仰ぎ、彼を見据えた。
「……あなたにとって、私は何者なの?」
彼はわずかに視線を帳の外へと逸らし、鼻で笑った。
「俺が甘やかしすぎたか。——明日、京へ戻る。
婚姻誓約書を書いた遊女以外は、全員、島原の遊郭へ送られる手筈になってる。
お前もそこで性根を叩き直してこい。俺が京での報告を終えたら、迎えに行く。」
——島原遊郭へ、送られる?
私は勢いよく顔を上げた。
けれど彼はただ私を見つめるだけで、やがてくるりと背を向けた。
……北条信堅はすでに、私との婚姻誓約書を提出している。
霧島清次が明日、京へ出発した後、
北条信堅もまた、私を連れて堺港へ向かうだろう。
彼は内親王を娶り、
私は、あの人と結婚する。
たぶん、これが——
この先、一生交わることのない、最後の面会。
「……霧島少将様。」
私は滅多に、彼をこう呼ぶことはなかった。
彼は足を止める。
私は彼に深く一礼をした。
「二年間のご庇護、ありがとうございました。 どうかご無事で。
……紅葉は、ここで失礼いたします。」