霧島清次が陣幕に戻ると、
「先ほどまで紅葉殿の帳の外で様子を窺っていた者、先ほど離れていきました」
——公家衆に随行して、わざわざこんな辺鄙な場所までやってきて紅葉の動向ばかり気にかける者。
一目で、それが明華内親王の遣いだと知れた。
今上陛下には、病弱な東宮ひとり。
そして唯一の娘であり、最年少の姫が明華内親王。
帝はかねてより明華内親王を溺愛しており、「皇室の私財の半分を嫁入り道具にする」とまで言われていた。
彼女を娶るということは、単なる富では済まされない。
——あの病弱な東宮にもしものことがあれば、
朝廷が史上初めて「女帝の即位」に踏み切る可能性も否めなかった。
そのとき、真に権力を握る者は、彼女自身ではない。
彼女が依り頼む——「夫」となる男なのだ。
かつて、都の貴族の若者たちはこぞって櫻庭紅葉に憧れた。
だが、誰もが「娶りたい」と願った相手は、明華内親王だった。
霧島清次も、かつては若さと激情に満ちていた。
紅葉の清純さを、美貌を、心の底から愛していた。
だが、櫻庭家が没落したあの日から、彼は思い始めた。
——なぜ、ひとつだけしか選べないのだ?
今の紅葉は、後ろ盾もなければ、正妻の座を与える必要もない。
そこで彼は、半年前に京での報告任務の折、ある筋書き通りの一芝居を打った。
明華内親王が仏参の途中に賊に襲われ、
彼が現れて命を救うという筋書きだった。
すべては順調に進んだ。
内親王は一目で彼に心を奪われ、「他の誰とも結婚しない」と言い張り、
霧島清次は正式に女帝候補の婿・清次殿下として選ばれた。
そしてその間、紅葉もまた、素直で大人しく、文句ひとつ言わなかった。
……ただし、明華内親王にはひとつ大きな難点があった。
——「気が短く、嫉妬深い」
自らが“唯一無二”として育てられた姫君に、他人を許す心はない。
紅葉の存在などとっくに把握していた。
だが「所詮は遊女」と見下し、相手にしてこなかっただけ。
だからこそ、霧島清次は彼女に“芝居”を打つ必要があった。
——紅葉など、ただの慰み者。どうとでもなる。と。
もしもそれを怠れば、明華内親王は決して黙ってはいない。
……そして今の紅葉は、未だに気位が高すぎる。
このまま京へ連れて帰れば、内親王と衝突するのは目に見えている。
ならば——少し、ここで「性根を叩き直して」からでも遅くはない。
その間に、自分は都での根回しを済ませ、
無事に内親王との婚姻を済ませ、機嫌をとった上で紅葉を迎えに行けばいい。
京郊の屋敷はすでに整えてある。
櫻庭家の旧宅を模した造りに仕上げてあるのだ。
それは紅葉には内緒だった。
いずれ彼女に見せて、驚かせようと——「本当の家を用意したんだ」と。
そう、たとえ明華内親王と結婚式を挙げようとも、
彼の紅葉への感情は何ひとつ変わらない。
その屋敷こそが、二人の「家」になる。
……そう思えば、紅葉がその家を見たときの反応が、今から楽しみでさえある。
霧島清次は自然と、唇の端をわずかに上げた。
——ただ、一つだけ。
今夜の紅葉の反応は、いつもとは少し違っていた。
何かが引っかかる。
何かが、違う——
「……誰か、いるか。」
側近を呼びつけて命じた。
「俺が発った後、彼女をしっかり守れ。島原に送るのは“形だけ”だ。
本当に誰かが彼女に手を出したら、その首を持って俺の前に来い。」
「はっ」
「それと……傷はどうなっている。」
そう口にして、霧島清次は苦笑を漏らす。
自ら首を横に振った。
「……まぁ、芝居は最後までやり通さねば意味がない。少し痛い目を見せるのも、彼女のためだ。」
そうして、彼は再び机に向かい、急ぎの公務へと取りかかった。
そのとき、役人が大きな束を抱えて入ってくる。
「少将様。将兵たちと遊女の婚姻誓約書です。承認の印がないと効力が発生しません。」
霧島清次は書面に目を落とし、心の中で冷笑した。
——くだらない。
何が婚姻だ。
何百人もの男に抱かれてきた女を娶るだと?
冗談じゃない。
——そんなものに判を押すのさえ、手が穢れる気がした。
彼は私印を放り投げるように差し出した。
「お前が押しておけ」