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第5話

……痛い——

夜更け、太ももの傷の痛みで目を覚ました。


熱っぽい。

このままだと良くない気がする。


霧島清次に薬を乞うなど、決してしたくない。

けれど、幼い頃に屋敷の薬堂に出入りしていたおかげで、薬草の知識は少しある。


身体を引きずるようにして、陣幕の外へ出ようと帷を捲ると——

そこに立っていた人影に、思わず息を呑んだ。


……北条信堅だった。


彼もまた、予想外だったのか、一瞬目を見開いた。

そして私の薄着に気づくと、何も言わず服を脱いで私に掛けた。


そのまま無言で、手にしていた薬の瓶を私の掌に押し込み、踵を返そうとする。

「……待って」


思わず声をかけた。

彼の背に、斜めに走る生々しい傷が見えた。


今日、彼の隊は敵軍の掃討に出ていたと聞いた。

戻ったばかりなのか。


きっと、昼間のことを耳にして——

私に薬を届けようとしたのだろう。


けれど、帳の中に入る理由が見つからず、ずっと外に立っていたに違いない。

「入って、……薬、塗ってくれませんか?」


彼は私を見返しながらも、目を合わせようとはしなかった。

「……まだ、君は俺の嫁じゃない。それは、よくない」

「……」


不意に、胸が詰まった。

私は“遊女”として、ここに二年もいた。


霧島清次でさえ、私をあの衣で人前に踊らせようとしたというのに。

……それでも、なお私の「女としての誇り」に触れてはいけないと、

そう言う人が、いた。


まるで夢のようで、少し——奇妙だった。


何かを言おうとした瞬間、帳の向こうから声が聞こえた。

「聞いたか? 霧島少将様、あの女を島原の遊郭に送るらしい」

「そんな美人を島原に流すなんてもったいねぇよな。 明日からは好きにできるってわけか」

「少将様が出発した後は、誰にも止められねぇよな。……なぁ、お楽しみは平等に、順番守れよ?」

「ひひひ、まずは俺からだ。お前ら、後でな……」


……!!

拳をぎゅっと握りしめた。

背中にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。


——あの時、私に暴力を振るいながらも罰されなかった男。

……まだ、諦めていなかったのだ。


「——怖がるな。」

北条信堅が私を見て、そして帳の向こうを睨んだ。


その眼差しは、氷のように冷たく鋭かった。

彼の言葉は少ない。

けれど、なぜだろう。

……不思議と、心が落ち着いた。



翌朝——

太鼓と笛の音が鳴り響く。


霧島清次を筆頭に、将たちが京への帰還に向けて出発する。


私は黙って荷をまとめ、

最後に、あの脇差を手に取った。


……あの男たちが、いつ来るかわからない。


緊張したまま時が過ぎる。

帷が揺れた。


思わず身を固くする——が、

入ってきたのは、北条信堅だった。


彼は旅装に身を包み、背中には荷を背負い、

頬に飛んだ血を袖でぬぐったばかりの様子だった。


「……行くぞ」


彼の手には、霧島清次の私印が押された婚姻誓約書があった。


それがあれば、軍営を出るのに何の障害もない。

二人で軍営を抜けようとした、そのときだった——


「川のほとりで、遺体が!」

「越後の奴らの仕業だ! この傷跡、あの短刀のものだ!」

「早く報告を!!」


混乱の声が飛び交う。

……私の胸がざわつく。


何か、感じた。

無意識のうちに、川の方へ足を向けようとした。


だが、北条信堅がそっと袖を引いた。

「……行くな。汚れる」


私の動きが止まる。

気づいてしまった。


——あの男たちの末路だと。


「……あなたが、やったの?」


北条信堅は、何も言わなかった。


私が袖を振り解くと、

彼はわずかに戸惑ったような表情を浮かべた。


「怖がるな。俺は……」

そのとき。

私は静かに手巾を取り出し、彼の頬に残っていた血をそっと拭った。


そして、微笑んで言った。

「ありがとう。……行きま…、帰ろう」


北条信堅は、私を見つめた。

深く、長く、まっすぐに。


そして一言だけ、静かに——

「……帰ろう」


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