北条信堅の家は、堺港にあった。
豊かな港町と聞いてはいたけれど、
彼の身なりや物腰を見るかぎり、とても裕福な家の育ちには思えなかった。
私は彼に助けられ、連れ出してもらった身だ。
何かしら、礼を尽くさねば。
そう思って、道すがら質屋に立ち寄り——
雾島清次から贈られた三味線と、密かに大切にしていた勾玉を手放した。
得た金銀を、すべて北条信堅に差し出した。
「私をこの地獄から救ってくれたお礼です。
あなたが私を遊女の身から解き放ってくれたこと、一生忘れません。
命を救われた恩は、金銀財宝では返しきれませんが…、いずれ、私にできることがあるなら、命を賭してもお応えします」
北条信堅は、何か言いかけては、喉の奥に飲み込んで。
そして、ぽつりと訊ねた。
「……これから、どこへ行くつもりだ?」
「わかりません。……けど、私は自由になりたい」
その言葉に、不安げに私を見つめる北条信堅。
私は一瞬、身構えた。
また誰かに囲い込まれるのかと、怯えてしまった。
けれど、彼の口から出たのは——
「……じゃあ、行き先が決まるまで。せめて、それまでの間だけでも……俺のそばに居てくれないか?」
その願いは、決して理不尽なものではなかった。
この先の人生をきちんと考える前に、
目の前のこの不器用な恩人の世話くらい、してもいいだろう。
私はうなずいた。
その瞬間、彼はふっと、大きく息を吐いた。
「……まずは着替えて、家で休もう。」
彼は、私が質に入れた勾玉を取り戻し、三味線のうち五十銭を手にして、私を連れて堺港一番の服屋へ。
その華美な店構えに、私は思わず口を開いた。
「ちょ、ちょっと……そんなに無駄遣いしなくても……」
けれど——
店内に入るなり、番頭が目を見開いた。
次の瞬間、大声で叫んだ。
「お、御館様が……御館様がご帰還だーっ!!」
私の中で、何かが音を立てて崩れた。
思っていた北条信堅と、目の前にいる彼は……まるで別人だった。
呉服屋で衣を仕立て、
高級料亭で食事をし、
金銀細工の店で一揃いの装飾を誂える。
——けれど、どれも彼が一文も払うことはなかった。
すべてが、北条家の所有する店だったのだ。
屋敷に着いて、ようやく私は理解した。
北条信堅の「北条」こそ、かつての関東豪族・北条家のそれ。
莫大な財を築き、その資産は代々の子孫に受け継がれていた。
——彼は、北条家当主その人だった。
屋敷の門に立つと、使用人たちが我先に駆け寄り、涙ぐんで出迎えた。
「……神よ、ありがとうございます……
御館様が、無事にご帰還なさった……!」
そして彼らは、私の方へと視線を向けた。
「……この方は?」
北条信堅は、私の手首をそっと取り、
きっぱりと宣言した。
「……私が、正式に娶った奥方様だ」