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第7話

「う、嘘でしょ!」


その声に振り返ると、

正殿の方から、黄色い小袖を身に纏った明るい少女が駆け込んできた。


「信堅様! 嫁ぐ相手は私じゃなかったの!?」

——彼女は、雾島という武家の令嬢だった。


後に知った話だが、北条家からの縁談を断るため、

信堅は戦の混乱に紛れて一人、軍へ志願したのだという。


北条家の名を持ち、爵位まで継いでいながら、

彼はあえて自分の素性を隠し、

戦功をすべて他人に譲ってまで、名を伏せ続けてきた。


だから、誰も彼が北条家の御館様だとは気づかなかったのだ。



夜が更ける。

私は部屋にいた。そこに立つ北条信堅は、凛とした裃姿。


鍛え抜かれた身体が、凛とした装いによって一層映える。

それでも彼は、部屋の敷居をまたごうとはしなかった。

まるで、私に誤解されぬよう。


「……雾島とは、何もない」

「ふふ、わかってますわ。」

私は笑って答える。


「一つだけ、お願いがある」

彼はやや神妙な顔つきで、続けた。


「……君がこの家を出ていくまでの間だけでも、

奥方様としてここにいてほしい。そうでないと、皆が結婚を迫ってくる」


本来、婚姻の誓約書は私が恩返しとして差し出したものだったはず。

今は——彼が、私に「助けを求めている」。


……この人、本当は鈍いのかしら。


「……いいわ。」


その言葉に、彼の目がぱっと輝いた。

口元には、抑えきれない笑みがこぼれる。


「なら、準備してくる」


——けれど。

彼の言う「準備」は、私の想像をはるかに超えていた。


屋敷中に紅白の幕が張り巡らされ、

数百人の使用人が一斉に祝い着に身を包む。


私のために白無垢を誂える縫い子が、次々と屋敷に入り、

北条家が営むすべての店に「本日ご来店の方、半額」と大書された札が掲げられた。


一夜にして——堺港は、祝言一色に染まった。


彼はさらに街道沿いに席を設け、誰でも自由に祝福できるよう振る舞い酒を配った。


そして祝言の日——

塗り輿はきらびやかに、中街をゆっくりと進む。

町の人々が両脇に並び、

声を揃えて祝福の言葉を叫ぶ。


「末永く、お幸せに——!!」


誰かがささやく。


「この新婦、雾島家の娘か?」

「違うぞ。北条御館様が恋い焦がれた、女神のような女性だと聞いたぞ」

「見てみたいな……! まるで天皇の姫君でも嫁いでくるみたいだ」

「京でも、内親王が霧島少将様に嫁いだらしいが、ここほど賑やかじゃなかったぞ!」


——その名を聞いて、心がわずかに波立つ。


霧島清次。

彼も今ごろは、明華内親王と婚儀を済ませ、官職も順風満帆、得意満面に違いない。


——そんな思いが胸をよぎったとき、また別の声が聞こえた。


「その内親王、花嫁輿に乗ってる時に霧島少将様に『ひざまずけ』って言ったらしいぜ。

でも少将様、断固として拒否したんだってさ。

それで内親王、街中で不機嫌になって……あれは見ものだったなあ……」


一瞬、気が抜けてしまって——

下輿の際に足をくじいた。


「……っ!」


思わず声をあげる間もなく、

誰かの手が腰をしっかりと支えた。

「お足元にご注意を」


低く、優しい声。

角隠しの向こうから見えるのは、文付き羽織袴を纏った北条信堅の姿。


整った顔立ち。少し火照った小麦色の肌。

私は彼の腕にそっと手を添えて、小さく呟いた。


「……足、ひねっちゃったみたい」

次の瞬間、彼は私をそのまま抱き上げた。


「何を考えていた?」

「私……」

「——祝言の日に、他の男のことを考えるなんて、縁起が悪い」

その腕は、思いのほか力強くて、少し——強引だった。


周囲から、どっと歓声が湧き起こる。

仲人が慌てて駆け寄った。


「新郎様、それでは式次第に反します!」


けれど北条信堅は、振り返らずこう言った。


「これから先、奥方様の望みが北条家の掟だ」



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