「う、嘘でしょ!」
その声に振り返ると、
正殿の方から、黄色い小袖を身に纏った明るい少女が駆け込んできた。
「信堅様! 嫁ぐ相手は私じゃなかったの!?」
——彼女は、雾島という武家の令嬢だった。
後に知った話だが、北条家からの縁談を断るため、
信堅は戦の混乱に紛れて一人、軍へ志願したのだという。
北条家の名を持ち、爵位まで継いでいながら、
彼はあえて自分の素性を隠し、
戦功をすべて他人に譲ってまで、名を伏せ続けてきた。
だから、誰も彼が北条家の御館様だとは気づかなかったのだ。
夜が更ける。
私は部屋にいた。そこに立つ北条信堅は、凛とした裃姿。
鍛え抜かれた身体が、凛とした装いによって一層映える。
それでも彼は、部屋の敷居をまたごうとはしなかった。
まるで、私に誤解されぬよう。
「……雾島とは、何もない」
「ふふ、わかってますわ。」
私は笑って答える。
「一つだけ、お願いがある」
彼はやや神妙な顔つきで、続けた。
「……君がこの家を出ていくまでの間だけでも、
奥方様としてここにいてほしい。そうでないと、皆が結婚を迫ってくる」
本来、婚姻の誓約書は私が恩返しとして差し出したものだったはず。
今は——彼が、私に「助けを求めている」。
……この人、本当は鈍いのかしら。
「……いいわ。」
その言葉に、彼の目がぱっと輝いた。
口元には、抑えきれない笑みがこぼれる。
「なら、準備してくる」
——けれど。
彼の言う「準備」は、私の想像をはるかに超えていた。
屋敷中に紅白の幕が張り巡らされ、
数百人の使用人が一斉に祝い着に身を包む。
私のために白無垢を誂える縫い子が、次々と屋敷に入り、
北条家が営むすべての店に「本日ご来店の方、半額」と大書された札が掲げられた。
一夜にして——堺港は、祝言一色に染まった。
彼はさらに街道沿いに席を設け、誰でも自由に祝福できるよう振る舞い酒を配った。
そして祝言の日——
塗り輿はきらびやかに、中街をゆっくりと進む。
町の人々が両脇に並び、
声を揃えて祝福の言葉を叫ぶ。
「末永く、お幸せに——!!」
誰かがささやく。
「この新婦、雾島家の娘か?」
「違うぞ。北条御館様が恋い焦がれた、女神のような女性だと聞いたぞ」
「見てみたいな……! まるで天皇の姫君でも嫁いでくるみたいだ」
「京でも、内親王が霧島少将様に嫁いだらしいが、ここほど賑やかじゃなかったぞ!」
——その名を聞いて、心がわずかに波立つ。
霧島清次。
彼も今ごろは、明華内親王と婚儀を済ませ、官職も順風満帆、得意満面に違いない。
——そんな思いが胸をよぎったとき、また別の声が聞こえた。
「その内親王、花嫁輿に乗ってる時に霧島少将様に『ひざまずけ』って言ったらしいぜ。
でも少将様、断固として拒否したんだってさ。
それで内親王、街中で不機嫌になって……あれは見ものだったなあ……」
一瞬、気が抜けてしまって——
下輿の際に足をくじいた。
「……っ!」
思わず声をあげる間もなく、
誰かの手が腰をしっかりと支えた。
「お足元にご注意を」
低く、優しい声。
角隠しの向こうから見えるのは、文付き羽織袴を纏った北条信堅の姿。
整った顔立ち。少し火照った小麦色の肌。
私は彼の腕にそっと手を添えて、小さく呟いた。
「……足、ひねっちゃったみたい」
次の瞬間、彼は私をそのまま抱き上げた。
「何を考えていた?」
「私……」
「——祝言の日に、他の男のことを考えるなんて、縁起が悪い」
その腕は、思いのほか力強くて、少し——強引だった。
周囲から、どっと歓声が湧き起こる。
仲人が慌てて駆け寄った。
「新郎様、それでは式次第に反します!」
けれど北条信堅は、振り返らずこう言った。
「これから先、奥方様の望みが北条家の掟だ」