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第8話

彼の腕は、熱く、そしてとても頼もしかった。

私を抱きかかえたまま、北条家の屋敷へとまっすぐに歩いていく。


周囲は太鼓に笛、賑やかな歓声とざわめきが渦巻いていたのに——

私の耳に響いていたのは、彼の心臓の音だけだった。

まるで太鼓のように、確かで、力強くて。


——私にとっては、形だけの式のはずだったのに。

どうして、こんなにも胸が騒ぐのだろう。


その夜。

彼は宴席から戻り、少し酒の匂いをまとって部屋に入ってきた。


扉が開いて、私が布団の端に座っているのを見ると——

「……すまない、部屋を間違えた」

そう言って、踵を返して出て行った。


けれど、数刻もせぬうちにまた戻ってきて、

私の顔を見るなり、ふわりとした笑みを浮かべた。

なんだか——妙に間が抜けていて。


彼は床脇の小榻にそのままごろりと横になった。

「……もう遅いな。寝よう」


彼の着物には、酒の染みがついていた。

私はそっと近づき、脱がせてやろうと袖に手をかけた。


その瞬間——

北条信堅は、ぱちりと目を開けて、

反射的に襟元を押さえた。


……私は、手を引っ込めた。

彼はすぐに、深い眠りへと落ちていったけれど、

私はその祝いのろうそくを見つめながら、一睡もできなかった。


彼が、私の手を拒んだ。


それは、やはり私が“遊女”だったからか。

……それに、私はかつて霧島清次の女だった。


昼間、ほんの一瞬でも、この式が「本当のもの」になるかもと思ってしまった自分が——

なんだか、馬鹿みたいだった。


互いに、必要としているだけ。

それだけの関係。



翌朝、彼は早くに屋敷を出た。

帰郷してすぐ、大きな家をまとめるのだから忙しいのは当然だ。


私はふと、部屋の中で立ち尽くしてしまった。

……私は、何をすればいいのだろう。


そのとき、女中たちがいくつもの匣を抱えて部屋に入ってきた。

「奥方様。御館様より『もし目覚めて退屈しているようなら、家のことを少し見てくださると助かります』とのお言葉です。」


……家のことに深く関わるのは避けたいと思っていた。

断ろうとしたところで、もう一人の女中が、

とても良い音色の三味線を大切そうに抱えて入ってきた。


「もし家事にご興味がなければ、西町にある三味線屋で教室を開きませんか? 奥方様の腕前なら、きっと——」


それからというもの、北条信堅は、毎日のように私のために「何か」を用意してくれた。

書や絵の稽古、三味線の指導、城門前での施粥。

——何かしらの“役目”が、いつも私を待っていた。


少しだけ、思った。

もしかして、彼はわざと私に暇を与えないようにしているのではないかと。


とはいえ、彼は日々忙しく、

夜はきちんと部屋に戻ってくるものの、

いつも小榻に控えめに横になるだけで、あっという間に眠ってしまう。

——私は話しかける隙すら見つけられずにいた。



そんなある日。

彼が珍しく早く帰ってきた。

ようやく話せる、と顔を上げた私に、

彼の方が先に切り出した。


「……京都の質屋番頭から文が届いた。ある女が、勾玉を質に入れたそうだ。それが、君が以前質に出したものと、まったく同じだったと」


私は言葉を失った。


——その勾玉は、母が兄と私に一つずつ持たせてくれたもの。

兄はそれを、嫁に渡していた。


父も母も兄も、みな死んだと思っていた。

義姉も、行方不明だった。


私は、雾島清次に頼んで彼女の行方を調べてもらった。

「もういない」と、そう言われていた。

でも、亡骸を見た者はいなかった。


……もし、その勾玉が本物なら。

義姉は、まだ生きているのかもしれない。


そして、もしそうなら——

私は、彼女の手を、絶対に離さない。


私の思考を見透かしたように、北条信堅が手をそっと握った。


「……一緒に、行こう」


その手は、あの日私を抱き上げたときと同じ——

あたたかくて、まっすぐで、どこまでも優しかった。


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