彼の腕は、熱く、そしてとても頼もしかった。
私を抱きかかえたまま、北条家の屋敷へとまっすぐに歩いていく。
周囲は太鼓に笛、賑やかな歓声とざわめきが渦巻いていたのに——
私の耳に響いていたのは、彼の心臓の音だけだった。
まるで太鼓のように、確かで、力強くて。
——私にとっては、形だけの式のはずだったのに。
どうして、こんなにも胸が騒ぐのだろう。
その夜。
彼は宴席から戻り、少し酒の匂いをまとって部屋に入ってきた。
扉が開いて、私が布団の端に座っているのを見ると——
「……すまない、部屋を間違えた」
そう言って、踵を返して出て行った。
けれど、数刻もせぬうちにまた戻ってきて、
私の顔を見るなり、ふわりとした笑みを浮かべた。
なんだか——妙に間が抜けていて。
彼は床脇の小榻にそのままごろりと横になった。
「……もう遅いな。寝よう」
彼の着物には、酒の染みがついていた。
私はそっと近づき、脱がせてやろうと袖に手をかけた。
その瞬間——
北条信堅は、ぱちりと目を開けて、
反射的に襟元を押さえた。
……私は、手を引っ込めた。
彼はすぐに、深い眠りへと落ちていったけれど、
私はその祝いのろうそくを見つめながら、一睡もできなかった。
彼が、私の手を拒んだ。
それは、やはり私が“遊女”だったからか。
……それに、私はかつて霧島清次の女だった。
昼間、ほんの一瞬でも、この式が「本当のもの」になるかもと思ってしまった自分が——
なんだか、馬鹿みたいだった。
互いに、必要としているだけ。
それだけの関係。
翌朝、彼は早くに屋敷を出た。
帰郷してすぐ、大きな家をまとめるのだから忙しいのは当然だ。
私はふと、部屋の中で立ち尽くしてしまった。
……私は、何をすればいいのだろう。
そのとき、女中たちがいくつもの匣を抱えて部屋に入ってきた。
「奥方様。御館様より『もし目覚めて退屈しているようなら、家のことを少し見てくださると助かります』とのお言葉です。」
……家のことに深く関わるのは避けたいと思っていた。
断ろうとしたところで、もう一人の女中が、
とても良い音色の三味線を大切そうに抱えて入ってきた。
「もし家事にご興味がなければ、西町にある三味線屋で教室を開きませんか? 奥方様の腕前なら、きっと——」
それからというもの、北条信堅は、毎日のように私のために「何か」を用意してくれた。
書や絵の稽古、三味線の指導、城門前での施粥。
——何かしらの“役目”が、いつも私を待っていた。
少しだけ、思った。
もしかして、彼はわざと私に暇を与えないようにしているのではないかと。
とはいえ、彼は日々忙しく、
夜はきちんと部屋に戻ってくるものの、
いつも小榻に控えめに横になるだけで、あっという間に眠ってしまう。
——私は話しかける隙すら見つけられずにいた。
そんなある日。
彼が珍しく早く帰ってきた。
ようやく話せる、と顔を上げた私に、
彼の方が先に切り出した。
「……京都の質屋番頭から文が届いた。ある女が、勾玉を質に入れたそうだ。それが、君が以前質に出したものと、まったく同じだったと」
私は言葉を失った。
——その勾玉は、母が兄と私に一つずつ持たせてくれたもの。
兄はそれを、嫁に渡していた。
父も母も兄も、みな死んだと思っていた。
義姉も、行方不明だった。
私は、雾島清次に頼んで彼女の行方を調べてもらった。
「もういない」と、そう言われていた。
でも、亡骸を見た者はいなかった。
……もし、その勾玉が本物なら。
義姉は、まだ生きているのかもしれない。
そして、もしそうなら——
私は、彼女の手を、絶対に離さない。
私の思考を見透かしたように、北条信堅が手をそっと握った。
「……一緒に、行こう」
その手は、あの日私を抱き上げたときと同じ——
あたたかくて、まっすぐで、どこまでも優しかった。