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第11話

霧島栖はようやく小さな店の掃除を終え、腰に手を当てて大きく息を吐いた。


久瀬隼人のもとを離れてから、すでに半月ほどが経っていた。


彼女が選んだのは、ある地方都市。空気が澄んでいて、生活のリズムもゆっくりとしており、まさに彼女の理想にぴったりの場所だった。


この街に来た霧島栖は、即断即決で小さな店舗を借りた。広くはないが、カフェを営むには十分なスペースだった。


準備はすべて整い、霧島栖は掃除用具を片付けて、店の鍵を閉めた。ガラスのドアに映る自分の姿に向かって、彼女はぱっと明るく笑みを浮かべた。こんなふうに、心から笑うのはいつぶりだろう?


そう思った瞬間、麻痺したはずの心に、ほんのわずかな痛みが走った。久瀬隼人、白鳥瑶、そしてその子供。今ごろ、きっと幸せな家庭を築いているのだろう。


「久瀬隼人……」


彼の名をつぶやいた彼女は、すぐに首を振ってその名前を頭から追い払った。新しい生活を始めたのだから、過去のことに囚われていては駄目。


そんなことを考えていたとき、足首にふわりと温もりが触れた。


「にゃあ~」


三毛の子猫が彼女の足首にすり寄り、甘えるような声をあげた。


「子猫ちゃん!」


霧島栖は驚きと喜びで声を上げ、小さな頭を撫でながらしゃがみ込んだ。子猫は仰向けになってお腹を見せ、にゃあにゃあと愛嬌をふりまいた。


「この子、あなたのことがすごく好きみたいですね。」


明るく澄んだ男性の声がして、霧島栖は慌てて顔を上げた。すぐそばに誰かが立っていた。


「ごめんなさい、気づきませんでした。」


彼女は急いで謝り、少し場所を空けた。


男性は微笑みながら彼女の隣にしゃがみ込むと、子猫がすぐに彼の手に頬をすり寄せた。まるで以前から知っているかのように。


「この子、あなたの猫なんですか?」


「いえ、違います。」


彼の口元に柔らかな笑みが浮かび、霧島栖はしばしその表情から目が離せなかった。彼は「キャットフードのフリーズドライ」と書かれた袋をそっと置き、子猫のお腹を優しく撫でた。


「つい最近、このあたりで見かけたんです。それ以来、通りがかるたびに餌をあげています。」


「ということは、この子は野良猫?」


霧島栖は彼の笑顔に目を合わせた。


「たぶん、そうでしょうね。」


彼の声もまた心地よかった。


「この子も、きっと居場所を求めているんでしょうね。」


彼が子猫を撫でる姿に、長くて濃いまつげが顔に影を落とし、どこか切なげだった。霧島栖の心の奥にある柔らかな部分が、そっと触れられたような気がした。


「じゃあ、行こう。」


霧島栖は言って、子猫を抱き上げた。


「にゃ?」


子猫は戸惑いながらも抵抗せず、ただ不思議そうな顔をしていた。


「え?」


彼は状況を理解していないようだった。


「避妊手術よ!」


霧島栖は一語一語はっきりと告げ、肩に子猫を乗せて満面の笑みを浮かべた。


「行こう?」


すでに彼女は動物病院の住所をスマホで検索しており、男性はその勢いに引っ張られるように立ち上がった。


病院の場所を見つけて歩き出した霧島栖に、彼はしばらく呆然としていたが、やっとのことでフリーズドライの袋を持って後を追った。彼は前髪をかき上げ、声を整えて手を差し出した。


「僕は林原清和はやしばら きよかず。初めまして、よろしくお願いします。」


霧島栖は足を止め、手を伸ばしてしっかりと彼の手を握り返した。


「霧島栖です。この街には引っ越してきたばかり。よろしくお願いします。」


子猫も彼女の真似をするように、二人が握り合う手の上に小さな肉球をちょこんと乗せ、「にゃ」と一声鳴いた。ふたりは顔を見合わせて、思わず笑い合った。


彼女の心の中で騒いでいた過去の記憶も、その笑い声とともに、ゆっくりと夕闇に溶けていった。


林原清和は彼女と並んで歩きながら言った。


「あのカフェ、あなたのお店だったんですね。」


霧島栖は頷いた。

「明日がオープン初日なの。子猫が一緒にいてくれそうで嬉しいな。」


三毛猫はちょうどいいタイミングで「にゃあ」と鳴き、頬にすり寄ってきた。


「僕も行きますよ。前から気になっていたんです、あなたのカフェ。」

林原清和の声に、彼女は冗談めかして笑った。


「子猫と張り合っちゃだめよ?」


そう言いながら、動物病院の看板が目の前に現れた。

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