黒の高級車が静まり返った無人の街道を疾走していた。運転席に座る男の顔は影に覆われ、その表情は読み取れなかった。
「栖ちゃん……」
彼は呟いた。胸の中は罪悪感と後悔でいっぱいだった。
ハンドルを強く叩いた瞬間、脇に置いていたスマートフォンが突然鳴った。車を停め、画面をスライドして通話ボタンを押すと、久瀬祖母の声が飛び込んできた。
「隼人、栖に会えた?彼女、何か言ってた?私たちを許してくれそう?」
久瀬隼人の胸がぎゅっと締めつけられる。しかし彼は祖母を慰めるように言った。
「栖ちゃんは優しい子。きっと僕を許してくれます。」
「私はなんてことを……あの子を叩いたなんて……栖ちゃんは今、きっと私を恨んでいるわ……」
久瀬隼人の心は既に混乱の極みで、それでも彼は言った。
「祖母様、また後で電話します。まずは休んでください。」
彼は初めて、通話を一方的に切った。祖母の泣き声を遮断するように。
彼はかつて禁煙していた。それは霧島栖が煙草の匂いを嫌っていたから。だが今、どうやって自分の感情を抑えればいいのか分からなかった。
「栖ちゃん……僕を責めないよね?」
煙に包まれながら、彼はここ最近の出来事を何度も思い返し、自分を叩いた。
「久瀬隼人……こんな女に騙されて、最愛の人を見失って……」
煙草を揉み消し、目の前の高級住宅を見上げる。中は真っ暗だった。霧島栖はもう寝ているのだろう。
久瀬隼人は車を降り、玄関の前で立ち尽くす。煙の匂いが消えるまで、ただそこに。あの久瀬社長が、こんなにも戸惑う姿など誰が想像できただろうか。
「栖ちゃん……君は分かってくれる。きっと……」
彼は独り言を呟く。だが、白鳥瑶の言葉が脳裏に浮かんでは消えなかった。
「だから霧島栖は離婚すると言ってたのよ!霧島栖はもうあなたの元を去ったの!」
「そんなはずない……栖ちゃんは僕を……」
不安はどんどん膨らんでいく。最後に会ったのは、もう一か月近くも前のことだった。
彼はずっと病院に付き添い、白鳥瑶の出産を見守っていた。その間、一度も霧島栖のことを思い出さなかった。そして今日、偶然に真実を知り、自分が何をしてきたのかをやっと理解した。
「栖ちゃん……僕は必ず君に償う……」
意を決して玄関を開けると、そこには誰もいなかった。空気には埃の匂いが充満し、長い間、人の気配がないことを物語っていた。
「栖ちゃん……?」
慌てて灯りをつける。どの部屋にも薄く埃が積もっていた。
「栖ちゃん!栖ちゃん!」
彼は取り乱し、すべての部屋の扉を開け、すべての引き出しを引いた。最初は彼女を探すために、次第に彼女の痕跡を求めて。
だが何もなかった。
「……本当に行ってしまったのか……僕を置いて……」
膝をつき、がらんどうの部屋に打ちひしがれた。そして寝室のサイドテーブルの引き出しを開けたとき、あの封筒を見つけた。
「栖ちゃん……!」
希望を胸に封筒を開いた。
だが、そこにあったのは金の文字で記された一枚の紙――離婚届受理証明書。
「……嘘だ……」
手が震える。スマホを取り、霧島栖の番号を押す。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません……』
繰り返される機械音声。久瀬隼人は何度も何度も番号を押した。
その姿はまるで、闇の中で迷子になった子供のようだった。足元に落ちた離婚証明書。涙が静かにその上に落ちた。
彼は重く電話を取り上げ、秘書にかけた。
「……夫人の行方を調べてくれ。」
「かしこまりました!」
電話を切ると、久瀬隼人は赤く充血した目で離婚証明を見つめた。
写真に写る、少し幼さの残る彼女の笑顔。かつて自分が誓った全ての言葉が胸を刺す。
『栖ちゃんを大切にしろ。骨の髄まで愛せ。そうしなければ俺が許さない。』
「栖ちゃん……僕が間違ってた……」
もしあの頃の自分が今の自分を見たら、きっと殴り倒したくなるだろう。
全ては——
久瀬隼人の顔に冷ややかな笑みが浮かぶ。目には鋭い光。
「白鳥瑶……絶対に許さない……」