ガシャン!
霧島栖は目の前でゆりりが絵の具缶を倒すのを見て、慌ててやんちゃな子猫を抱き上げた。
「こら、偉大なる画家様の邪魔したらだめでしょ!」
ゆりりは不満げに「にゃー」と鳴き、一人と一匹の小競り合いが始まった。林原清和は筆を止め、微笑を浮かべてその様子を見つめていた。
静かだったアトリエに、柔らかくあたたかな空気が広がっていく。
霧島栖は猫をアトリエの外に出し、ふぅとため息をついて、子猫に散らかされた絵の具チューブを片付け始めた。
「俺がやるよ。」
林原清和も彼女の隣にしゃがみ、共に片付ける。ふと、二人の手が同じ絵の具チューブに触れた。
霧島栖は瞬間的に頬を染め、手を引こうとした。しかし、その手を林原の大きな手がそっと押さえた。
彼の指には、長年の筆の作業でできた硬い跡があり、しっかりと彼女の手首に触れていた。
「清和……」
霧島栖はどもりながらも手を引こうとしたが、林原はその手を強く握りしめ、指を絡ませてきた。
「なっ……!」
霧島栖が驚いて身体を震わせた瞬間、林原は彼女を抱き寄せた。整えたばかりの絵の具チューブが、再び「ドサッ」と音を立てて散らばった。
「動かないで。」
彼の吐息が首筋を撫で、彼女の肌は敏感に反応した。
胸がぴったりと重なり、鼓動が響き合う。
「清和、何をしてるの……?」
「栖……俺の気持ち、まだわからない?」
林原は猫のように彼女の首元に顔をすり寄せ、自分の存在を刻もうとしていた。
「わたし……」
「『離婚したから』って言い訳、もう何度聞いたかわかる?」
彼は突然、彼女を抱えあげて膝の上に乗せ、その髪が彼女の耳元をくすぐる。
「引っ越してきた時からずっと避けてるようで、俺に諦めてほしいのかと思ったよ。」
そう言いながら、彼は肩に軽く噛みついた。
「でも、諦めないってわかってるでしょ?君も……俺の気持を知ってるはずだ。」
「清和、恋愛はそんな簡単なものじゃない……」
霧島栖は唇を噛みしめ、ためらいながらも続けた。
「過去に傷ついたからこそ、あなたを巻き込みたくないの。」
「君は俺を傷つけたりしない。」
「清和……これは……」
「ねぇ、俺じゃダメなの?」
林原清和は彼女の手をそっと放し、そのまっすぐな眼差しで彼女を見つめた。
「迷い猫を引き取るって言ってたのに、いざ来たら追い返すなんて……」
霧島栖の目には、彼の頭の上に猫耳が垂れているように見えた。
「勝手に入ってきたくせに、急に出ていこうとして……」
彼の声は寂しさと悔しさに滲み、彼女を押しのけようとした。
「冗談だって思ってくれたらいい……もう、前のようには……」
「誰が追い返すって言ったの。ちゃんと引き取るよ。」
林原清和はぽかんとしながらも、彼女が彼の手を握り返したのを感じた。まるで猫をあやすように、彼の背をそっと撫で、耳元に囁いた。
「うちに来ちゃったんだから、責任取らないとね。」
林原清和は彼女をじっと見つめ、次の瞬間、彼女の唇に深くキスを落とした。
「じゃあ、小猫と一緒に……家に戻ってくれる?」
霧島栖は彼の首に腕を回し、息を弾ませながらも囁いた。
「うん……」
その言葉が終わらぬうちに、彼は再び唇を重ね、ぬくもりを確かめ合うようにキスを続けた。
久瀬家。
白鳥瑶は床に跪き、頬は腫れあがり、血が滲んでいた。ボディーガードたちは容赦なく彼女の顔を打ち続け、止まる気配はなかった。
「よくも久瀬家を騙したわね!」
久瀬祖母の怒声が響く。
そこへ久瀬隼人が重い足取りで現れた。祖母はすぐに彼に駆け寄り、問いかける。
「隼人、栖には会えたの?許してくれたの?」
彼は暗い表情で首を振った。
「どうしよう……彼女はきっと、私のことを恨んでるわ……!」
祖母は再び白鳥瑶を平手打ちし、彼女を床に倒した。
「いやらしい女!久瀬家を弄ぶなんて!」
久瀬隼人は冷ややかな目で泣き伏す白鳥瑶を見下ろし、助手からの報告を思い出し、怒りを燃やした。
「手術の手配を。」
白鳥瑶は信じられないという表情で彼を見上げ、涙を溜めて叫んだ。
「隼人、やめて!」
久瀬隼人の目は冷たく、感情の欠片もなかった。
「流産を装うのは得意だったじゃないか?黒川社長からも、君とその子は久瀬家の処分に任せると承諾を得ている。」
その声は冷たく響きわたり命じた。
「今すぐ手術を実施しろ。」