久瀬隼人は、怒った霧島栖の様子を見つめながら、反論せず、ただ淡い笑みを浮かべた。
その様子に霧島栖はますます苛立ち。
「久瀬隼人、私たちはもう離婚したの。これ以上つきまとわないで。そんなことを続けられたら、この店も続けられないわ」
久瀬隼人はその場に立ち尽くし、うつむいたまま、まるで叱られている学生のようだった。
「栖ちゃん、俺は他の誰かを追いかけたりしない。ただこうして、昔と同じように、君を追いかけ続けるだけだよ」
霧島栖は一瞬、目を見開いた。
確かに久瀬隼人は誰かを追いかけるのが得意な人ではなかった。ただ、不器用に独占欲を見せつけるだけ。久瀬家の跡取りという立場で、他の男を寄せつけないようにする。彼女はそんな不器用な愛に惹かれていた。自分だけに向けられるものだと思っていた。けれど、その彼が、彼女を傷つけたのだ。
「久瀬隼人、そんなことをしても無駄よ」
彼女は冷笑した。
「私はもうはっきり言ったはず。私たちはもう終わったの」
そして彼女は続けた。
「私と清和さん、結婚するの。だから、もう私たちの生活に干渉しないで」
「……結婚?」
久瀬隼人は、氷の海に突き落とされたような衝撃に襲われ、体が凍てつく中で砕け散った。
「結婚だって……?君たちが?」
彼は一歩踏み出し、霧島栖の手首をぐっと掴んだ。その力はまるで彼女の腕を折ってしまいそうなほどだった。
霧島栖は痛みに耐えながら、歯を食いしばって言った。
「そうよ。だから、もう私たちを邪魔しないで!」
「だめだ、絶対に許さない!」
彼は彼女を抱きしめ、その唇に強引なキスを落とした。彼女がどれだけもがこうと、放そうとはしなかった。唇がぶつかり合い、久瀬隼人は激しい執着を込めて彼女を味わった。まるで彼女を骨の髄まで自分のものにしようとしているかのように。
「久瀬隼人、あなた、狂ってる!」
「そうだよ、栖ちゃんを失った瞬間、俺はもう狂ってるんだ」
彼の冷杉の香りが、霧島栖を包み込む。五感に染み渡るその匂いと熱に、彼女は抗おうとするが、力は次第に抜けていった。
「すべては俺の過ちだった。君への愛を、他の誰かに分け与えたこと……あれは決してしてはいけないことだった」
「栖ちゃん、お願いだ。もう一度、やり直させてくれ。君だけを愛する久瀬隼人になる。最初から、最後まで」
霧島栖の目に涙が浮かび、胃がむかついてくる。彼女は必死に抵抗するが、それでも彼の腕は離れなかった。
「栖!」
その声は、林原清和だった。
「清和!」
霧島栖が震える声で叫ぶと、彼はすぐに久瀬隼人の顔面に拳を叩き込んだ。久瀬隼人はよろめいたが、まだ彼女を放そうとはしなかった。林原清和は彼の手首を捻り上げ、彼の腕を脱臼させた。
清和はすぐさま霧島栖を自分の後ろにかばい、彼女に自分の上着を羽織らせた。
「栖、大丈夫、もう大丈夫だ。見なくていい、振り返らないで。早く帰ろう、これからのことは、全部俺に任せて」
そう言って、彼は車のキーを彼女の手に握らせた。
「いい子だ、早く行って」
霧島栖は頷き、両腕を抱きしめながら走り去った。清和は、彼女の車が動き出したのを見届け、ようやく安心したように久瀬隼人を振り返った。彼はいつになく険しい表情を見せ、瞳には怒りの火が灯っていた。
「久瀬隼人、もう彼女を苦しめるのはやめろ。お前の執着は、ただの暴力だ」
「お前は知らないんだ。彼女がどれだけ悪夢にうなされてるかを。暴走する馬に肋骨を砕かれる夢、雪山で捨てられ、雪崩に飲まれる夢……全部、お前のせいだ!」
久瀬隼人はその場に立ち尽くし、怒りは消え失せ、ただ呆然と立ちすくんだ。
「ごめん、ごめん、ごめん……」
それしか、彼には言えなかった。
「本当に償いたいなら、彼女を自由にしてやれ」
林原清和は拳を振り上げ、再び彼を殴った。
久瀬隼人の唇から血がにじむ。それでも久瀬隼人は反撃せず、ただ「ごめん」と呟き続けた。
林原清和はもう何も言わず、背を向けてその場を去った。
久瀬隼人がどれほどその場に立ち尽くしていたか、自分でもわからなかった。
翌日、再び彼が店を訪れると、入口には一枚の札がかかっていた。
「店舗譲渡」
久瀬隼人は、その文字を長い間見つめ続け、ようやく一歩を踏み出し、背を向けて去っていった。