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第20話

「隼人!」


久瀬隼人が帰ってくると聞いた久瀬祖母は、早くからソファに座って彼の帰りを待っていた。


「栖ちゃんは?」


彼女はすぐに隼人の後ろを覗き込んだが、そこには誰もいなかった。


「おばあちゃん、栖ちゃんはもう戻ってこない」


久瀬隼人の顔にはまだ傷が残っており、それを見た祖母はたちまち心を痛めた。


「祖母、これを返すよ」


隼人は手を差し出す。手のひらには、金糸で修復されたあの宝石の腕輪があった。


「栖ちゃんが受け取らなかったの?」


祖母は一瞬呆然とし、それから胸を叩いて悔しがった。


「全部、白鳥瑶ってあの嫌な女のせいよ。うちの可愛いお嫁さんを追い出すなんて……!」


 久瀬隼人は黙って祖母の罵声を聞いていた。


「あの女、ついにおかしくなって、家で粗相をするようになったから、すぐに黒川社長のところに送り返したわ。見てるだけで腹立たしい!」


「全部あの女のせいなのよ。じゃなきゃ、うちの栖ちゃんが逃げるはずないじゃない……」


「でもね、あの女、ある意味私に気づかせてくれたのよ」


祖母は隼人の手を取って、そっと耳元で囁いた。


「隼人、栖ちゃんに薬を盛ることってできない?女はね、子どもを授かったらもう逃げられないのよ……」


その言葉に久瀬隼人はハッとして首を横に振った。


「そんなことしちゃダメだ。栖ちゃんはもともと子どもを欲しがってなかったんだ……」


だが話が終わる前に、祖母は怒り出した。


「隼人、それじゃどうすればいいの?他の女と結婚してって言ったら、お前はそれでいいの?こんな方法しかないのよ。まずは子どもを授からせて、家で閉じ込めて、私が栖ちゃんの面倒を見る。栖ちゃんはもともと優しい子なんだから、丁寧に扱って、子どもまでできたら、きっとお前の元を離れたりしないわ」


久瀬隼人は何も言わなかった。祖母は、彼がためらっているのを見てさらに言葉を重ねた。


「隼人、あなただってまだ彼女を愛してるでしょう?外で一人にさせて平気なの?他の男と一緒になるくらいなら、子どもを産んでもらって、あなたたちで幸せになればいいじゃない」


「女はね、子どもはいらないって言ってても、一度お授かったら、簡単には手放せないのよ」


「お前がその子の父親になったら、栖ちゃんが本当にお前から離れられると思う?」


久瀬隼人は静かに目を伏せ、低くつぶやいた。


「……祖母、わかったよ」


 その答えに祖母は胸を叩きながら喜び、にこやかに言った。


「全部おばあちゃんに任せておきなさい。あとは栖ちゃんに会いに行くだけでいいのよ!」


そうは言っても、その後数日間、久瀬隼人はなかなか決心がつかなかった。そしてある日、祖母は自ら薬と一枚の紙切れを彼に手渡した。


「隼人、これはおばあちゃんが人を使って探し出した栖ちゃんの住所よ。けっこう苦労したのよ」


 久瀬隼人は一瞬ためらいながら、その紙を広げた。

 ──浜市。

「やっぱり、栖ちゃんは別の街で新しい生活を始めてるんだ……」


心がまた締めつけられるように痛んだ。自分は、そこまで嫌われているのか。店まで手放して、新しい街へ逃げてしまうほど……


あの林原清和、そんなにいい男なのか?


彼は薬の小瓶を強く握りしめ、低く声を絞り出した。


「おばあちゃん、俺、栖ちゃんに会いに行く」


祖母は目を輝いた。


「そうよ、隼人!きっと彼女だってまだお前のことを想ってるわよ。二十年以上の付き合いなのよ?そう簡単に終わるわけがないじゃない」


彼女は隼人を玄関まで背中を押した。


「浜市行きの飛行機はもう手配してあるわ。今すぐ行ってきなさい!」


飛行機に乗り込んでも、久瀬隼人の心にはまだ一抹の迷いがあった。手の中の薬の瓶を見つめながら、彼の胸には、過去の記憶がよぎる。


 ──「私、痛いのが怖いの。結婚も、出産も……」

 あのとき、自分はどう誓ったのか?


 ──「じゃあ、産まなくていい。家族に言われたら、俺が原因って言うから」


彼は目を閉じ、薬をそっとスーツのポケットに滑り込ませた。身を預けると、体が小さく震えた。


久瀬隼人は小さく呟いた。


「今回は……これで最後のさよならにしよう」


飛行機は静かに浜市に着陸した。彼はしばらく迷った後、紙に書かれた電話番号にそっとダイヤルした。


「はい?もしもし?」


スピーカーから聞こえてきたのは、相変わらず柔らかく澄んだ声だった。それだけで、彼の心は震えた。


 「もしもし?聞こえてますか?」


 久瀬隼人は、スマホを持つ手に力を込め、ようやく画面の向こうの霧島栖に向かって言った。


 「栖ちゃん、俺、今、浜市に来てる。最後でいいから……一度だけ、別れを言わせてくれないか?」

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