「隼人!」
久瀬隼人が帰ってくると聞いた久瀬祖母は、早くからソファに座って彼の帰りを待っていた。
「栖ちゃんは?」
彼女はすぐに隼人の後ろを覗き込んだが、そこには誰もいなかった。
「おばあちゃん、栖ちゃんはもう戻ってこない」
久瀬隼人の顔にはまだ傷が残っており、それを見た祖母はたちまち心を痛めた。
「祖母、これを返すよ」
隼人は手を差し出す。手のひらには、金糸で修復されたあの宝石の腕輪があった。
「栖ちゃんが受け取らなかったの?」
祖母は一瞬呆然とし、それから胸を叩いて悔しがった。
「全部、白鳥瑶ってあの嫌な女のせいよ。うちの可愛いお嫁さんを追い出すなんて……!」
久瀬隼人は黙って祖母の罵声を聞いていた。
「あの女、ついにおかしくなって、家で粗相をするようになったから、すぐに黒川社長のところに送り返したわ。見てるだけで腹立たしい!」
「全部あの女のせいなのよ。じゃなきゃ、うちの栖ちゃんが逃げるはずないじゃない……」
「でもね、あの女、ある意味私に気づかせてくれたのよ」
祖母は隼人の手を取って、そっと耳元で囁いた。
「隼人、栖ちゃんに薬を盛ることってできない?女はね、子どもを授かったらもう逃げられないのよ……」
その言葉に久瀬隼人はハッとして首を横に振った。
「そんなことしちゃダメだ。栖ちゃんはもともと子どもを欲しがってなかったんだ……」
だが話が終わる前に、祖母は怒り出した。
「隼人、それじゃどうすればいいの?他の女と結婚してって言ったら、お前はそれでいいの?こんな方法しかないのよ。まずは子どもを授からせて、家で閉じ込めて、私が栖ちゃんの面倒を見る。栖ちゃんはもともと優しい子なんだから、丁寧に扱って、子どもまでできたら、きっとお前の元を離れたりしないわ」
久瀬隼人は何も言わなかった。祖母は、彼がためらっているのを見てさらに言葉を重ねた。
「隼人、あなただってまだ彼女を愛してるでしょう?外で一人にさせて平気なの?他の男と一緒になるくらいなら、子どもを産んでもらって、あなたたちで幸せになればいいじゃない」
「女はね、子どもはいらないって言ってても、一度お授かったら、簡単には手放せないのよ」
「お前がその子の父親になったら、栖ちゃんが本当にお前から離れられると思う?」
久瀬隼人は静かに目を伏せ、低くつぶやいた。
「……祖母、わかったよ」
その答えに祖母は胸を叩きながら喜び、にこやかに言った。
「全部おばあちゃんに任せておきなさい。あとは栖ちゃんに会いに行くだけでいいのよ!」
そうは言っても、その後数日間、久瀬隼人はなかなか決心がつかなかった。そしてある日、祖母は自ら薬と一枚の紙切れを彼に手渡した。
「隼人、これはおばあちゃんが人を使って探し出した栖ちゃんの住所よ。けっこう苦労したのよ」
久瀬隼人は一瞬ためらいながら、その紙を広げた。
──浜市。
「やっぱり、栖ちゃんは別の街で新しい生活を始めてるんだ……」
心がまた締めつけられるように痛んだ。自分は、そこまで嫌われているのか。店まで手放して、新しい街へ逃げてしまうほど……
あの林原清和、そんなにいい男なのか?
彼は薬の小瓶を強く握りしめ、低く声を絞り出した。
「おばあちゃん、俺、栖ちゃんに会いに行く」
祖母は目を輝いた。
「そうよ、隼人!きっと彼女だってまだお前のことを想ってるわよ。二十年以上の付き合いなのよ?そう簡単に終わるわけがないじゃない」
彼女は隼人を玄関まで背中を押した。
「浜市行きの飛行機はもう手配してあるわ。今すぐ行ってきなさい!」
飛行機に乗り込んでも、久瀬隼人の心にはまだ一抹の迷いがあった。手の中の薬の瓶を見つめながら、彼の胸には、過去の記憶がよぎる。
──「私、痛いのが怖いの。結婚も、出産も……」
あのとき、自分はどう誓ったのか?
──「じゃあ、産まなくていい。家族に言われたら、俺が原因って言うから」
彼は目を閉じ、薬をそっとスーツのポケットに滑り込ませた。身を預けると、体が小さく震えた。
久瀬隼人は小さく呟いた。
「今回は……これで最後のさよならにしよう」
飛行機は静かに浜市に着陸した。彼はしばらく迷った後、紙に書かれた電話番号にそっとダイヤルした。
「はい?もしもし?」
スピーカーから聞こえてきたのは、相変わらず柔らかく澄んだ声だった。それだけで、彼の心は震えた。
「もしもし?聞こえてますか?」
久瀬隼人は、スマホを持つ手に力を込め、ようやく画面の向こうの霧島栖に向かって言った。
「栖ちゃん、俺、今、浜市に来てる。最後でいいから……一度だけ、別れを言わせてくれないか?」