ミシュランに載ったその上品なレストランで、霧島栖はかつて大好きだったフレンチ料理を前に、ただ黙っていた。ナイフもフォークも手に取ろうとはしない。
「栖ちゃん……あんまり好きじゃなかった? 別のお店に行こうか?」
久瀬隼人が恐る恐る声をかける。
「大丈夫」
栖は無表情のまま彼を見つめた。
「言いたいことがあるなら早く言って。今日限りで、私たちは完全に終わりよ。二度と会わない」
「完全に、終わり……?」
その言葉が、鋭く隼人の心を突き刺した。目元が赤く染まり、喉から小さく嗚咽が漏れる。
「栖ちゃん……この二十年、君との時間を本当に捨ててしまうのか……?」
「久瀬隼人、私たちの間にもう話すことなんてないわ。三人家族の席も譲った」
その言葉に、隼人は顔を歪めた。
「……あの子は、俺の子じゃないんだ。信じてほしい。俺が認めるのは、君が産んでくれた子だけなんだ」
必死に彼女の目を探る。しかし、栖の瞳にはもう、何の感情も映っていなかった。
「話があるなら早くして。まだ予定がある」
腕時計をちらりと見て、冷ややかに促した。その様子に、久瀬隼人は声が出なくなるほど打ちのめされた。
「どこへ……行くつもりなんだ……」
やっとのことでしぼり出した問い。
「あなたに関係ないでしょ。くだらない質問ばかりなら、もういいわ」
椅子を引いて立ち上がる。だが、隼人は慌てて彼女の前に立ちはだかる。
「お願いだ栖ちゃん……俺に教えてくれ。君の中で、俺よりも大切なものって何なんだ?」
「……何だって、あんたよりは大事よ。でもどうしても知りたいなら、教えてあげる」
彼女は一言ずつ、はっきりと口にした。
「ウエディングドレスの試着」
「……え?」
隼人は唇を震わせ、白くなるほど拳を握りしめた。
「冗談だろ? そんなこと言うくらいなら、もういっそう俺を殺してくれよ……!」
掴むように彼女の腕を引き寄せ、縋るように訴える。
「嘘だよな、栖ちゃん……」
「離して、久瀬隼人。別れの話をしたいって言ったのはあんたでしょう? だから時間を作ってきたの。……まさか、こんなくだらない理由だとは思わなかった」
「ほんとに……信じた私がバカだった」
「白鳥瑶の妊娠がわかったあの日から、ずっと私を騙してばかり」
そのまま彼を振り払って、席を離れようとする。
「お願い、栖ちゃん……俺を許してくれ。やり直そう」
「……久瀬隼人。私、あんたと結婚したの、もうあの時点で自分を押し殺してたのよ。本当はもっと自由で、気楽に生きたかった。でも、あんたのために全部捨てて、久瀬家の妻として生きてきたの」
「それなのに、どうして私が、他の女との子どもまで受け入れなきゃいけないの?」
彼女は苦しげに水を一口で飲み干すと、静かに尋ねた。
「久瀬隼人。この水……何か、入ってるの?」
その瞬間、隼人の顔が真っ青になった。
「だ、だめだ栖ちゃん! 早く車に乗って、病院に連れていく!」
彼は焦りながら彼女を抱き上げようとする。
「何なのよ、やめてっ!」
栖が抵抗しようとする中、体内に熱が走りはじめる。
「……どうして……カラダが熱い……」
車に乗せられた彼女は、次第にまともな意識を保てなくなっていく。
久瀬隼人は、自分のしたことに深い後悔の念を抱いた。あの時、つい魔が差して……水に入れたあれが、まさか本当に。
祖母の言葉が脳裏によみがえる。
『ほっといたら他の男のもんになるだけよ。それならいっそ、子どもを作ってやればいいの。』
『女はね、妊娠すれば変わるんだから』
「栖ちゃん……君、今の俺が誰か……わかる……?」
熱にうなされ、襟元を握る栖に、彼は静かに囁いた。
だがその時、彼女はふと目を見開いた。
「……あなたは、清和じゃない……誰……」