久瀬隼人は、ふと我に返ったように彼女から身を離した。その瞳には、まだわずかな理性が残っていた。
「栖ちゃん……ほんとに、俺のことわからないの?隼人だよ」
「君が一番愛してた、久瀬隼人なんだ……」
だが、霧島栖はただ自分の身体を抱きしめるようにして、怯えたまま目を伏せていた。まだ完全に意識が戻っていない様子のまま、かすかに口を開いた。
「久瀬隼人……? 知らない……清和は……? 私の清和はどこ……?」
その言葉を聞いた瞬間、久瀬隼人の表情が凍りついた。
ああ、これが……心が死ぬほど痛いことか。
これまで、どこかでまだ自分を騙していた。栖ちゃんはただ怒っているだけ、きっと自分に意地悪をしているだけだと。彼女が自分を愛していないなんて、そんなことあるはずないと。
けれど今、目の前の現実はあまりにも残酷だった。霧島栖の中で、自分はもう「大切な人」じゃない。彼女が一番愛しているのは――自分じゃない。
「栖ちゃん……」
彼はそっと手を伸ばし、西洋風のジャケットで彼女の身体を包んだ。
「あんなふうに傷つけてしまったのに……今さら、また君を傷つけるなんて……俺には、もうそんな資格ないよ」
苦しげに笑いながら、久瀬隼人は運転席に戻った。バックミラーには、彼が愛してやまない女性の姿。本当に、これが最後なんだ。
「栖ちゃん……君が幸せになれるなら、その隣にいるのが僕じゃなくても……それでいい」
エンジンがかかり、車は静かに走り出した。向かう先は病院。
その瞬間、ふと、胸の奥からある言葉が蘇った。
「もし十年後の僕が俺に優しくなかったら、俺を捨てていい。絶対に許さないで」
十六歳の久瀬隼人が、震える手で書いた手紙の一節。
その彼が今の自分を見たら、どう思うだろう。二十六歳になった自分が、他人のために栖を薬で支配し、生きる希望すら奪おうとしたことを知ったら……きっと、殺してしまうだろうな。
「栖ちゃん……お願いだ……永遠に、俺を許さないでくれ」
そう呟きながら、彼は霧島栖の身体をしっかりとジャケットで包み、腕に抱いて急救室へと運んでいった。
そして、自分のスマホを取り出し、林原清和の番号を押した。しばらくして、駆けつけてきた清和の姿を見届けると、彼は静かにその場を去った。
去り際、最後にもう一度、彼女の方を振り返ってしまった。
――霧島栖、もし俺が君を裏切ったなら。
――その罰として、永遠に、絶対に、幸せにはなれないように。
「だったら俺は永遠に、君のそばで、静かに見守るよ。一度でいい、俺のことを、もう一度だけ見てくれたら……それだけでいいんだ」