清原介人は、メールの「ゴミ箱」をもう一度開いた。
そこには確かに――昨夜、彼が見逃した数通の重要な取引メールが並んでいた。
そして、その時間――
彼のスマホを触ったのは、たった一人。
青山遥。
怒りがじわじわと胸にこみ上げてくる。
遥は仕事のことなど何も知らないくせに、勝手に判断してメールを削除した。
あの取引が白紙になれば、会社は最低でも一割の利益を失うことになる。
さらに、今日の会議に関しても――
これまでなら夏目汐里がきちんと朝のうちに準備してくれていた。
彼女が意地を張っていなければ、取引先を失うことなんてなかったはずだ。
苛立ちを抑えきれず、介人は汐里の番号をタップする。
……しかし、何度かけても返事はない。
冷たい電子音が繰り返されるたびに、胸の中の不安が膨らんでいった。
ふと、彼はある予感に突き動かされて、再びゴミ箱を開き――
そこに、見つけてしまった。
夏目汐里からの最後のメッセージ。
日付は、ちょうど昨夜。
彼はメッセージを復元し、画面いっぱいに表示された文章を見て、動けなくなった。
「八年の片想い、四年の過ち。すべて、ここで終わりにします。
社長――私はもう、あなたの秘書ではありません。
そして、あなたのことも、もう好きではありません。
私たちは、それぞれの人生を歩いていきましょう。
もう二度と、交わらないように」
その瞬間、彼は自分が何か大切なものを――
取り返しのつかない何かを失ったような、そんな息苦しさに襲われた。
彼の脳裏に、自然と過去の記憶が蘇る。
――四年前の、あの夜。
偶然のような出来事から、彼と夏目汐里は一線を越えた。
そのとき、彼の心にはまだ青山遥しかいなかった。
だから、金を渡して終わらせるつもりだった。
だが、汐里の瞳はあまりにも澄んでいて――
臆病な小動物のように慎ましやかで、拒絶の言葉を彼はどうしても口にできなかった。
彼女は、どこまでも彼に尽くしてくれた。
地位も名もなく、ただ「清原社長の秘書」として、そして…ベッドの中でも、一度も自分から何かを求めてくることはなかった。
「本当に、愚かな女だ」
そう何度も心の中で繰り返していた。
わずかな優しさだけで、すべてを捧げるような、愚かで健気な女。
彼は彼女に、未来を夢見るなと言い続けてきた。
――自分は遥だけを愛すると。
そして、今。
ついに彼女を切り捨てたはずなのに――
なぜだろう、思ったほど心は晴れない。
彼はメッセージを長い間見つめ、やがて画面を閉じた。
「……もう、いい」
夏目汐里が去ったのなら、それで終わりだ。
これが、二人の運命だったのだと。
そう自分に言い聞かせ、スマホをテーブルに戻した。
そして、腕の中の青山遥を抱きしめる。
その後数日、彼は会社を休み、遥と共に遊びに出かけた。
高級ジュエリー、オーダーメイドのドレス。
彼女が望むものは、すべて買い与えた。
だが――
彼の胸の内に漂う苛立ちは、日を追うごとに濃くなっていく。
遥はそんな彼の様子にまったく気づかず、楽しそうにはしゃいでいた。
ある日、彼女の買い物中にひとり取り残された介人は、
つい、スマホを取り出してしまう。
夏目汐里とのメッセージ画面。
最後にやりとりをしたのは、一ヶ月も前だった。
遥が戻ってきてから、ずっと連絡をとっていなかった。
衝動的に、彼は指を動かし、短いメッセージを送る。
「いつでも戻ってきてくれていい。秘書の席は、空けてある」
――けれど、そのメッセージは、既読も未読もつかない。
ブロックされていた。
夏目汐里が、彼をブロックしたのは、これが初めてだった。
震える手でスマホを握り締める彼に、遥が戻ってくる。
「介人、お待たせ。明日、オーロラ見に行かない? 絶対キレイよ」
彼女は新品のドレスに身を包み、彼の腕に絡みつく。
彼はスマホをそっと伏せ、平然を装って微笑んだ。
「……明日は、会社に戻らなきゃ。仕事が溜まってるんだ。終わったら、また一緒に行こう」
会社の経営は、この数日で大きな損失を抱えていた。
無理をしてまで彼女に時間を割いていた、その代償は小さくない。
遥は不満げに唇を尖らせたが、やがて甘えるように笑った。
「じゃあ、一緒に行く。私、介人の役に立ちたいの」
その笑顔に、彼の胸にほんの少しだけ甘さが差し込んだ。
――夏目汐里のことは、思い出の底に沈めればいい。