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第11話


清原介人は、メールの「ゴミ箱」をもう一度開いた。

そこには確かに――昨夜、彼が見逃した数通の重要な取引メールが並んでいた。


そして、その時間――

彼のスマホを触ったのは、たった一人。

青山遥。


怒りがじわじわと胸にこみ上げてくる。

遥は仕事のことなど何も知らないくせに、勝手に判断してメールを削除した。

あの取引が白紙になれば、会社は最低でも一割の利益を失うことになる。


さらに、今日の会議に関しても――

これまでなら夏目汐里がきちんと朝のうちに準備してくれていた。

彼女が意地を張っていなければ、取引先を失うことなんてなかったはずだ。


苛立ちを抑えきれず、介人は汐里の番号をタップする。

……しかし、何度かけても返事はない。


冷たい電子音が繰り返されるたびに、胸の中の不安が膨らんでいった。

ふと、彼はある予感に突き動かされて、再びゴミ箱を開き――

そこに、見つけてしまった。


夏目汐里からの最後のメッセージ。

日付は、ちょうど昨夜。


彼はメッセージを復元し、画面いっぱいに表示された文章を見て、動けなくなった。


「八年の片想い、四年の過ち。すべて、ここで終わりにします。

社長――私はもう、あなたの秘書ではありません。

そして、あなたのことも、もう好きではありません。

私たちは、それぞれの人生を歩いていきましょう。

もう二度と、交わらないように」


その瞬間、彼は自分が何か大切なものを――

取り返しのつかない何かを失ったような、そんな息苦しさに襲われた。


彼の脳裏に、自然と過去の記憶が蘇る。

――四年前の、あの夜。

偶然のような出来事から、彼と夏目汐里は一線を越えた。


そのとき、彼の心にはまだ青山遥しかいなかった。

だから、金を渡して終わらせるつもりだった。


だが、汐里の瞳はあまりにも澄んでいて――

臆病な小動物のように慎ましやかで、拒絶の言葉を彼はどうしても口にできなかった。


彼女は、どこまでも彼に尽くしてくれた。

地位も名もなく、ただ「清原社長の秘書」として、そして…ベッドの中でも、一度も自分から何かを求めてくることはなかった。


「本当に、愚かな女だ」


そう何度も心の中で繰り返していた。

わずかな優しさだけで、すべてを捧げるような、愚かで健気な女。


彼は彼女に、未来を夢見るなと言い続けてきた。

――自分は遥だけを愛すると。


そして、今。

ついに彼女を切り捨てたはずなのに――

なぜだろう、思ったほど心は晴れない。


彼はメッセージを長い間見つめ、やがて画面を閉じた。


「……もう、いい」


夏目汐里が去ったのなら、それで終わりだ。

これが、二人の運命だったのだと。


そう自分に言い聞かせ、スマホをテーブルに戻した。


そして、腕の中の青山遥を抱きしめる。

その後数日、彼は会社を休み、遥と共に遊びに出かけた。


高級ジュエリー、オーダーメイドのドレス。

彼女が望むものは、すべて買い与えた。


だが――

彼の胸の内に漂う苛立ちは、日を追うごとに濃くなっていく。


遥はそんな彼の様子にまったく気づかず、楽しそうにはしゃいでいた。


ある日、彼女の買い物中にひとり取り残された介人は、

つい、スマホを取り出してしまう。


夏目汐里とのメッセージ画面。


最後にやりとりをしたのは、一ヶ月も前だった。

遥が戻ってきてから、ずっと連絡をとっていなかった。


衝動的に、彼は指を動かし、短いメッセージを送る。


「いつでも戻ってきてくれていい。秘書の席は、空けてある」


――けれど、そのメッセージは、既読も未読もつかない。

ブロックされていた。


夏目汐里が、彼をブロックしたのは、これが初めてだった。

震える手でスマホを握り締める彼に、遥が戻ってくる。


「介人、お待たせ。明日、オーロラ見に行かない? 絶対キレイよ」


彼女は新品のドレスに身を包み、彼の腕に絡みつく。

彼はスマホをそっと伏せ、平然を装って微笑んだ。


「……明日は、会社に戻らなきゃ。仕事が溜まってるんだ。終わったら、また一緒に行こう」


会社の経営は、この数日で大きな損失を抱えていた。

無理をしてまで彼女に時間を割いていた、その代償は小さくない。


遥は不満げに唇を尖らせたが、やがて甘えるように笑った。

「じゃあ、一緒に行く。私、介人の役に立ちたいの」


その笑顔に、彼の胸にほんの少しだけ甘さが差し込んだ。

――夏目汐里のことは、思い出の底に沈めればいい。



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