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第13話


「……介人?」

まるで自分の見ているものが信じられないかのように、青山遥はおそるおそる呼びかけた。


だが、清原介人の表情はまるで氷のように冷たく、その様子に遥の胸にざわめきが走る。

「なんで……そんなことをしたんだ?」

男は冷え切った声でそう問いかけた。


「え……何のことを言ってるの? 介人……?」


遥が困惑したように返したその瞬間、介人の怒声が爆発した。

「聞いてるんだ! なんで汐里にそんなことをした!」


怒鳴られた遥は一瞬たじろいだが、「汐里」という名前を聞いた途端、呆れたように眉をしかめた。

「はぁ? あの人はただの秘書でしょう? なんでそんなことで怒るのよ。

だって介人、あの人のこと“ただの秘書”だって自分で言ってたじゃない」


堂々とした物言いに、清原介人は言葉を失った。


――そうだ。

あの日、彼女を切り捨てたのは、自分だった。


遥は彼に近づき、甘えるように腕を伸ばす。

「ねえ、もう怒らないで。お腹空いちゃったし、一緒にご飯食べに行こう?」


その甘ったるい声が耳に入った瞬間、介人の胸の中には苛立ちが渦を巻いた。

頭の中に浮かぶのは――あの日、黙って涙を堪えていた夏目汐里の顔。


彼は、何度も何度も、彼女の苦しみに背を向け、信じることすらしなかった。

彼女の心は、どれほど傷ついていたのだろう?


その想像が喉を締め付けるように苦しく、ついに彼は耐えきれずに遥を突き放した。


「……勝手に食べに行けよ。今そういう気分じゃない」


強く押したわけではなかったが、遥は数歩よろけ、目を見開いた。

この数日、ずっと彼に甘やかされ続けていた彼女にとって、それは信じがたい行動だった。


しかも――相手は夏目汐里。

もう会社を辞めた、ただの元秘書。


「……清原介人、まさか本気であの女を庇ってるの?まさか……あの秘書を追いかけて、私と別れるつもり!?」


遥の叫びは、介人の心に鋭く刺さった。

彼自身、どうしてこんなに苦しくなるのか分からなかった。


汐里がいなくなったのは、むしろ自分の望みだったはずなのに――

拳を握りしめて、感情を抑える。


「……ただ、ちょっと疲れてるだけだ。先に食べてきてくれ」


彼がそう言うと、遥は「ふん」と鼻を鳴らして、踵を返し部屋を出ていった。

残されたのは、散らかったままのオフィスと、重たい沈黙だけ。


清原介人は昼食も取らず、ひたすら仕事に没頭することで、頭の中を空にしようとした。

午後から夜まで、一歩も席を立たずに作業を進め、ようやくトラブルの処理が終わったとき――


皮肉にも、そのほとんどは青山遥のせいで起きた問題だった。

彼女の後始末をするために、今年の利益はほとんど吹き飛んでいた。


椅子にもたれ、深く息を吐いた。

外はすっかり暗くなり、ふとスマホを見れば――通知は、ひとつもない。


ぽっかりと空いた胸の内に、名もつかない寂しさと疲労が押し寄せる。

オフィスには、今や自分一人だけ。

思わず、ぽつりと口を開いた。


「……夏目汐里」


彼女が去ってから、初めてその名を口にした。

その名前は、呪いのように彼の心を縛り付け、次々と記憶を呼び起こす。


どれだけ遅くなっても、彼女はいつもそばにいてくれた。

全ての段取りを完璧に整え、彼の負担をそっと減らしてくれていた。


二人きりの夜、オフィスの窓際で交わした時間。

照れくさそうに赤くなった彼女の頬が、夕焼けのように美しくて。

子鹿のようなつぶらな瞳が潤むたび、どうしようもなく心がかき乱された。


次から次へとあふれ出す記憶に、もう耐えられなくなった。

彼は衝動的にスマホを手に取り、妹に電話をかけた。


数十秒、ようやく電話がつながる。

「寧々! 汐里が……汐里が今どこにいるか、知ってるか?」


受話器の向こうから、呆れたような笑い声が返ってきた。

「……何よ、お兄ちゃん。遥さんとあんなにラブラブだったのに、今さら汐里のこと?」


喉が詰まりそうになりながらも、必死で言葉を繋げる。

「……全部知ったんだ。あの時のこと、汐里を責めたのは俺の勘違いだった。

遥が全部、でっちあげたこと……。だから、汐里に謝りたい。彼女に戻ってきてほしい。二度と、遥には近づけさせないから……」


必死の言葉は、次の瞬間――無慈悲な声で打ち砕かれた。

「……もう、いいよ。汐里は、あんたらの謝罪なんて望んでない。

そして、もう二度と会わせない」


その言葉を最後に、通話は無情にも切られた。


沈黙。


虚しさと後悔、そして怒りが胸を焼き尽くす。

彼は震える手でスマホを床に叩きつけた――その瞬間。


ガチャッ


扉の開く音がした。

反射的に立ち上がる。


その姿に、抑えきれない希望がこみ上げる。


「……汐里……!」


彼は信じたかった。

もう一度、あの人が戻ってきたのだと――。



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