「……介人?」
まるで自分の見ているものが信じられないかのように、青山遥はおそるおそる呼びかけた。
だが、清原介人の表情はまるで氷のように冷たく、その様子に遥の胸にざわめきが走る。
「なんで……そんなことをしたんだ?」
男は冷え切った声でそう問いかけた。
「え……何のことを言ってるの? 介人……?」
遥が困惑したように返したその瞬間、介人の怒声が爆発した。
「聞いてるんだ! なんで汐里にそんなことをした!」
怒鳴られた遥は一瞬たじろいだが、「汐里」という名前を聞いた途端、呆れたように眉をしかめた。
「はぁ? あの人はただの秘書でしょう? なんでそんなことで怒るのよ。
だって介人、あの人のこと“ただの秘書”だって自分で言ってたじゃない」
堂々とした物言いに、清原介人は言葉を失った。
――そうだ。
あの日、彼女を切り捨てたのは、自分だった。
遥は彼に近づき、甘えるように腕を伸ばす。
「ねえ、もう怒らないで。お腹空いちゃったし、一緒にご飯食べに行こう?」
その甘ったるい声が耳に入った瞬間、介人の胸の中には苛立ちが渦を巻いた。
頭の中に浮かぶのは――あの日、黙って涙を堪えていた夏目汐里の顔。
彼は、何度も何度も、彼女の苦しみに背を向け、信じることすらしなかった。
彼女の心は、どれほど傷ついていたのだろう?
その想像が喉を締め付けるように苦しく、ついに彼は耐えきれずに遥を突き放した。
「……勝手に食べに行けよ。今そういう気分じゃない」
強く押したわけではなかったが、遥は数歩よろけ、目を見開いた。
この数日、ずっと彼に甘やかされ続けていた彼女にとって、それは信じがたい行動だった。
しかも――相手は夏目汐里。
もう会社を辞めた、ただの元秘書。
「……清原介人、まさか本気であの女を庇ってるの?まさか……あの秘書を追いかけて、私と別れるつもり!?」
遥の叫びは、介人の心に鋭く刺さった。
彼自身、どうしてこんなに苦しくなるのか分からなかった。
汐里がいなくなったのは、むしろ自分の望みだったはずなのに――
拳を握りしめて、感情を抑える。
「……ただ、ちょっと疲れてるだけだ。先に食べてきてくれ」
彼がそう言うと、遥は「ふん」と鼻を鳴らして、踵を返し部屋を出ていった。
残されたのは、散らかったままのオフィスと、重たい沈黙だけ。
清原介人は昼食も取らず、ひたすら仕事に没頭することで、頭の中を空にしようとした。
午後から夜まで、一歩も席を立たずに作業を進め、ようやくトラブルの処理が終わったとき――
皮肉にも、そのほとんどは青山遥のせいで起きた問題だった。
彼女の後始末をするために、今年の利益はほとんど吹き飛んでいた。
椅子にもたれ、深く息を吐いた。
外はすっかり暗くなり、ふとスマホを見れば――通知は、ひとつもない。
ぽっかりと空いた胸の内に、名もつかない寂しさと疲労が押し寄せる。
オフィスには、今や自分一人だけ。
思わず、ぽつりと口を開いた。
「……夏目汐里」
彼女が去ってから、初めてその名を口にした。
その名前は、呪いのように彼の心を縛り付け、次々と記憶を呼び起こす。
どれだけ遅くなっても、彼女はいつもそばにいてくれた。
全ての段取りを完璧に整え、彼の負担をそっと減らしてくれていた。
二人きりの夜、オフィスの窓際で交わした時間。
照れくさそうに赤くなった彼女の頬が、夕焼けのように美しくて。
子鹿のようなつぶらな瞳が潤むたび、どうしようもなく心がかき乱された。
次から次へとあふれ出す記憶に、もう耐えられなくなった。
彼は衝動的にスマホを手に取り、妹に電話をかけた。
数十秒、ようやく電話がつながる。
「寧々! 汐里が……汐里が今どこにいるか、知ってるか?」
受話器の向こうから、呆れたような笑い声が返ってきた。
「……何よ、お兄ちゃん。遥さんとあんなにラブラブだったのに、今さら汐里のこと?」
喉が詰まりそうになりながらも、必死で言葉を繋げる。
「……全部知ったんだ。あの時のこと、汐里を責めたのは俺の勘違いだった。
遥が全部、でっちあげたこと……。だから、汐里に謝りたい。彼女に戻ってきてほしい。二度と、遥には近づけさせないから……」
必死の言葉は、次の瞬間――無慈悲な声で打ち砕かれた。
「……もう、いいよ。汐里は、あんたらの謝罪なんて望んでない。
そして、もう二度と会わせない」
その言葉を最後に、通話は無情にも切られた。
沈黙。
虚しさと後悔、そして怒りが胸を焼き尽くす。
彼は震える手でスマホを床に叩きつけた――その瞬間。
ガチャッ
扉の開く音がした。
反射的に立ち上がる。
その姿に、抑えきれない希望がこみ上げる。
「……汐里……!」
彼は信じたかった。
もう一度、あの人が戻ってきたのだと――。