ドアの向こうから現れたのは、彼が心から待ち望んだ人ではなかった。
――入ってきたのは、青山遥だった。
その瞬間、彼女の耳にも届いてしまったのだ。
「汐里」という、男の口から漏れたその名前が。
遥の胸に、抑えきれない嫉妬が込み上げる。
彼女にはわからなかった。ただの秘書に過ぎないはずの女が、なぜ何度も彼女の前に立ちはだかるのか。
目の前で落胆した様子の清原介人を見るのが、何よりも耐えられなかった。
「……また汐里なの? ねえ、介人……あなた、本当にあの女が好きなの!?」
詰め寄る彼女に、清原介人は答えなかった。
目の前にいるのが汐里でないと気づいた時点で、彼の意識はすでにここにはなかった。
その態度がさらに遥を逆上させる。
涙を滲ませながら、ヒステリックな声で叫び出した。
「彼女なんて、ただの秘書でしょ!? ただの下僕よ!?私には最初から分かってた! あの女、あなたに色目使ってたもの!だから出て行って正解だったのよ!
……それとも、介人……本当にあの女に恋してるの!?」
絶え間なく投げつけられる問いかけに、介人は黙したまま、ただ黙っていた。
――しかし、青山遥は甘やかされることに慣れすぎていた。
冷たくあしらわれることなど、耐えられない。
怒りに駆られ、彼女は机の上の書類を手当たり次第に叩き落とす。
「さっき聞こえたのよ! “汐里、どこにいるんだ”って!
探すつもりなの!? 連れ戻すつもり!? やっぱり好きなんでしょ、あの女のこと!」
限界だった。
彼の瞳に、もはや遥への愛情は残っていなかった。
どうして、自分はこんな女を愛していたのか――そのことすら理解できなかった。
理不尽で、自己中心的で、夏目汐里を苦しめ、追い出した張本人。
その瞬間、怒りが爆発した。
「そうだ! 俺は夏目汐里が好きなんだ、好きになったんだよ! 何が悪い!」
口火を切ったその一言から、堰を切ったように怒りが噴き出す。
清原介人は一歩一歩、遥に近づきながら吐き捨てた。
「お前は、俺の秘書たちを勝手に辞めさせた。それだけじゃない。俺のスマホから重要なメールを無断で削除して、いくつもの取引先が契約を破棄してきたんだ。
社内じゃ、社員に威圧的に振る舞って……みんな、お前と働くのが嫌で辞めたがってる。
そのせいで、会社は莫大な損失を出した。……それでも、俺は目をつぶってきた。
だけど――なんで、汐里まで追い出す必要があった!?
……そうだ、俺は夏目汐里を愛してる!
お前がいなかったあの数年間――ずっとそばにいてくれたのは、彼女だ!
青山遥……お前に、彼女を貶める資格なんか、微塵もない!」
その目は、冷酷で、暗く燃えていた。
遥はその視線に怯え、涙が目に滲んだ。だが、口だけは止まらなかった。
「でも……でも、彼女はただの秘書よ!? どうせ安っぽい女じゃない!」
――パチンッ!
その言葉が終わる前に、乾いた音が部屋に響いた。
清原介人の手が、青山遥の頬を強く打っていた。
想像すらしていなかった衝撃に、遥はその場に凍りついた。
次の瞬間、溜まっていた涙が一気に頬を伝い、彼女は取り乱して男に掴みかかる。
「ひどい……っ! 介人、あなた……私を叩いたの!? “愛してる”って言ってくれてたのに……! どうして……どうしてあんな女なんかを選ぶのよ!」
だが、彼女の暴れる手は、あまりにも軽かった。
気づいてしまった後の男の目は、遥を見下すような軽蔑に満ちていた。
その手をぐっと掴むと、再び――今度は容赦なく、もう一度、平手が飛んだ。
――バチン!
遥の顔がぐいと横を向き、頬はみるみる腫れあがった。
それでも、彼の怒りは冷めることはなかった。
そして、その声は氷より冷たく突き刺さった。
「……夏目汐里が受けた苦しみに比べれば、お前に与えたこの程度の痛みなんて、何でもない。
お前は……汐里に謝罪しろ。地に頭を擦りつけてでも、償え」