男の瞳に、もはや情というものは一滴も残っていなかった。
――もし、わずかでも迷いがあったとすれば、それも今、跡形もなく消え去っていた。
彼はただ、心底から嫌悪していた。
どうしてこんな女に執着してしまったのか。
どうして、そんな女のために何度も、何度も夏目汐里を傷つけてしまったのか――
清原介人は拳を強く握りしめ、凍りつくような表情で青山遥を見据えた。
その目に宿る冷たさに、遥は思わず息を飲んだ。
彼女は今まで、一度としてこんな介人を見たことがなかった。
どんな時も自分を甘やかし、願いを聞き入れてくれていたあの男が、今や別人のようだ。
――すべては夏目汐里のせいだ。あの女さえいなければ……!
遥の瞳は怨嗟に濁り、憎悪の炎を宿していた。
だがその醜い感情は、彼にとっては全て手遅れだった。
「今こそ……すべて、汐里に返す時だ」
そう呟くと同時に、彼は遥の腕を乱暴に掴んで引きずり始めた。
怒りに満ちた彼の力に、遥は抵抗すらできず、泣き叫びながらも引きずられる。
「やめてっ……お願い、介人、お願いだからやめてぇ!」
彼女の悲鳴は無視され、二人はオフィスの外に出る。
待ち構えていた数名の警備員が近づき、彼の合図で遥を押さえ込んだ。
「――跪くのが好きなんだろ? だったら、明日までずっとそうしてろ」
その命令を残し、彼は遥の泣き声など振り返ることなく背を向けた。
――今、彼の胸の中にあるのはただ一人。夏目汐里のことだけだった。
自分の気持ちをようやく認めたとたん、これまでの愚かさが土砂崩れのように押し寄せる。
どうして、失うまで気づけなかったのか。
どうして、こんなにも大切な存在を手放してしまったのか。
運転席に乗り込むや否や、彼は怒りにまかせてハンドルを拳で叩きつけた。
そして、青山遥の趣味で飾られた車内のぬいぐるみやクッション、スナック菓子を次々と放り投げる。
「……全部、汐里が嫌いなものばっかじゃねえか……!」
怒りと悲しみが渦を巻き、彼の理性を焼き尽くす。
しかし、どれだけ車を綺麗にしても、そこに汐里の痕跡はひとつも残っていなかった。
過去、あれだけ何度も共に過ごしたこの場所に――
愛した彼女の存在は、何一つ、何一つとして残っていなかったのだ。
胸が張り裂けそうだった。
「くそっ……!」
その夜、彼はもう一台の車に乗り換え、荒れたままの心で別荘へと戻る。
けれど、そこも同じだった。
たった一ヶ月。
たった一ヶ月で、家の中は青山遥の色に染められていた。
ピンク色のカーテン、クッション、香り付きのディフューザー。
四年間の記憶を、たった一月で塗り潰されていた。
目の奥が熱くなり、呼吸ができなくなる。
彼は必死で探した。
夏目汐里の、たった一つでもいい、残された痕跡を。
髪留めでも、ペンでも、メモでも、何でもいい――だが、何もなかった。
「なんで……なんで何も残ってないんだ……」
涙も出なかった。ただただ、心が空虚だった。
彼は狂ったように部屋の物を壊し、叫び、暴れた。
眠ることが怖かった。目を閉じれば、汐里が現れてしまうから。
あの日――
彼は、汐里が荷物をまとめて去っていく姿を、黙って見ていただけだった。
「行かないで」と、どうして一言も言えなかったのか。
「うあああああああああっ!!」
喉が裂けるほど叫んで、彼はその場に崩れ落ちた。
そのまま、夜が明けるまで動けなかった。
ようやく朝日が差し込んだころ、インターホンが鳴った。
「社長、お時間です。……青山様、まだ会社でお待ちです」
執事の声は、まるで何も知らぬかのように穏やかだった。
赤く充血した目を向けた清原介人は、低く、そして震える声で告げた。
「……車を出せ。会社に行く」
その胸に残るのは――
燃えるような後悔と、消えぬ怒りだけだった。