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第15話


男の瞳に、もはや情というものは一滴も残っていなかった。

――もし、わずかでも迷いがあったとすれば、それも今、跡形もなく消え去っていた。


彼はただ、心底から嫌悪していた。

どうしてこんな女に執着してしまったのか。


どうして、そんな女のために何度も、何度も夏目汐里を傷つけてしまったのか――

清原介人は拳を強く握りしめ、凍りつくような表情で青山遥を見据えた。


その目に宿る冷たさに、遥は思わず息を飲んだ。

彼女は今まで、一度としてこんな介人を見たことがなかった。

どんな時も自分を甘やかし、願いを聞き入れてくれていたあの男が、今や別人のようだ。

――すべては夏目汐里のせいだ。あの女さえいなければ……!


遥の瞳は怨嗟に濁り、憎悪の炎を宿していた。

だがその醜い感情は、彼にとっては全て手遅れだった。


「今こそ……すべて、汐里に返す時だ」


そう呟くと同時に、彼は遥の腕を乱暴に掴んで引きずり始めた。

怒りに満ちた彼の力に、遥は抵抗すらできず、泣き叫びながらも引きずられる。

「やめてっ……お願い、介人、お願いだからやめてぇ!」


彼女の悲鳴は無視され、二人はオフィスの外に出る。

待ち構えていた数名の警備員が近づき、彼の合図で遥を押さえ込んだ。


「――跪くのが好きなんだろ? だったら、明日までずっとそうしてろ」


その命令を残し、彼は遥の泣き声など振り返ることなく背を向けた。

――今、彼の胸の中にあるのはただ一人。夏目汐里のことだけだった。


自分の気持ちをようやく認めたとたん、これまでの愚かさが土砂崩れのように押し寄せる。


どうして、失うまで気づけなかったのか。

どうして、こんなにも大切な存在を手放してしまったのか。


運転席に乗り込むや否や、彼は怒りにまかせてハンドルを拳で叩きつけた。

そして、青山遥の趣味で飾られた車内のぬいぐるみやクッション、スナック菓子を次々と放り投げる。


「……全部、汐里が嫌いなものばっかじゃねえか……!」


怒りと悲しみが渦を巻き、彼の理性を焼き尽くす。

しかし、どれだけ車を綺麗にしても、そこに汐里の痕跡はひとつも残っていなかった。


過去、あれだけ何度も共に過ごしたこの場所に――

愛した彼女の存在は、何一つ、何一つとして残っていなかったのだ。

胸が張り裂けそうだった。


「くそっ……!」


その夜、彼はもう一台の車に乗り換え、荒れたままの心で別荘へと戻る。

けれど、そこも同じだった。


たった一ヶ月。

たった一ヶ月で、家の中は青山遥の色に染められていた。

ピンク色のカーテン、クッション、香り付きのディフューザー。


四年間の記憶を、たった一月で塗り潰されていた。


目の奥が熱くなり、呼吸ができなくなる。

彼は必死で探した。


夏目汐里の、たった一つでもいい、残された痕跡を。

髪留めでも、ペンでも、メモでも、何でもいい――だが、何もなかった。


「なんで……なんで何も残ってないんだ……」


涙も出なかった。ただただ、心が空虚だった。

彼は狂ったように部屋の物を壊し、叫び、暴れた。

眠ることが怖かった。目を閉じれば、汐里が現れてしまうから。


あの日――

彼は、汐里が荷物をまとめて去っていく姿を、黙って見ていただけだった。

「行かないで」と、どうして一言も言えなかったのか。


「うあああああああああっ!!」


喉が裂けるほど叫んで、彼はその場に崩れ落ちた。

そのまま、夜が明けるまで動けなかった。

ようやく朝日が差し込んだころ、インターホンが鳴った。


「社長、お時間です。……青山様、まだ会社でお待ちです」


執事の声は、まるで何も知らぬかのように穏やかだった。


赤く充血した目を向けた清原介人は、低く、そして震える声で告げた。


「……車を出せ。会社に行く」


その胸に残るのは――

燃えるような後悔と、消えぬ怒りだけだった。



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