出社した清原介人がオフィスに入ると、ちょうど出勤ラッシュの時間帯だった。
社員たちが行き交う中、誰もが一様に同じ場所へ視線を向ける。
そこにいたのは――
髪は乱れ、化粧も落ち、地面に膝をついたままの青山遥だった。
昨夜から一睡もせず、ボディーガードに押さえつけられた状態で膝をつき続け、今にも気を失いそうな顔をしていた。
だが、それ以上に彼女を追い詰めていたのは、人々の冷たい視線だった。
かつては誰よりも華やかだったはずの自分が、今は晒し者になっている――
その屈辱に、遥は耐えられなかった。
「夏目汐里……全部あんたのせいよ!ぜんぶっ!!」
怒りと憎しみが爆発し、遥は叫び声を上げた。
「介人がこんなふうになったのも、全部あんたのせいよ!あんたなんか死ねばよかったのに!介人を誘惑したあんたは最低の女よ!」
その罵声はフロア中に響き渡り、社員たちの眉が次々とひそめられる。
今まで何も言えなかった者たちが、ついに声を上げ始めた。
「よくそんなこと言えるわね。夏目さんは四年間、誠実に働いてたわよ。あんたが来てからよ、空気が悪くなったのは」
「そうよ、汐里さんは何も悪くない。むしろ青山さん、あなたの方がやりすぎだったのよ。彼女がいなくなった今でも、まだ陰で罵るなんて……見苦しいにもほどがあるわ」
「口を開けば“秘書”って見下して、いざ自分の思い通りにならないと被害者ヅラ? 本当に最低なのは、あんたよ」
周囲の囁きと非難が波のように押し寄せる。
遥は怒りのあまり、立ち上がって一人ひとり殴ろうとしたが、ボディーガードに抑えられたままではどうにもならなかった。
「お前ら全員、夏目汐里からいくら貰ったのよ!?何が“真面目な秘書”よ、あんな女、きっと体で取り入ったに決まってる!」
罵声はさらに過激になり、社員たちは露骨に顔をしかめた。
そしてその瞬間――
「……っ」
その声を聞きつけて現れた清原介人が、フロアに足を踏み入れる。
彼の顔には怒気が満ちており、社員たちは自然と道を空けた。ボディーガードも彼の意図を察し、手を放す。
自由になった遥は、四つん這いのまま介人の元へ這い寄り、彼の脚にすがりついた。
「介人……見てよ、みんな私をいじめてるのよ……!夏目汐里の手下ばっかり!お願い、あいつら全員クビにして!全部解雇してよ!」
涙を流しながら叫ぶその顔は、もはや憐れすぎて目を背けたくなるほどだった。
彼女は次々と指を差して、汚い言葉で社員たちを罵った。
「そいつも!あいつも!みーんなクズなのよ!」
だが――
「……っ!」
介人は、遥の身体を思いきり蹴り飛ばした。
「俺が求めたのは反省だ。なのに、お前はまだ他人を責めてるのか」
彼の声は、氷のように冷たかった。
「お前なんかもう、何者でもない。ただの醜い女だ。俺は今まで気づかなかった……お前の中がこんなに腐ってたなんてな」
静まり返った空間に、彼の怒声が響く。
「みんなの言ってたこと、俺は全部聞いてた。夏目汐里は――何も間違ってなかった。全てはお前が、彼女を追い詰めたんだ」
遥は床に倒れ、涙を浮かべたまま訴える。
「……でも、介人が愛してるのは私でしょう?私なんでしょう!?」
しかし、介人は冷たい視線を向け、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が愛してるのは、夏目汐里だ」
場が静まり返る。社員たちは一様に驚き、ある者は口を押え、ある者は息を呑む。
だが介人は、それをまるで清算するようにもう一度口にした。
「――俺は夏目汐里を愛してる」
言葉にした瞬間、心の奥から凍りついていた氷が音を立てて崩れていくのを感じた。
四年間、喉元に引っかかっていたもの。
ようやく、すべて吐き出せた。
「そして……お前に対する感情は、もうとっくに終わってる。この数週間は、ただの過ちだった。
俺は汐里を探し出して、もう一度やり直すつもりだ。――青山遥、出て行け」
その言葉を聞いた瞬間、遥の瞳が見開かれ、恐怖と狂気が交錯した。
「……私に出て行けって? 清原介人……っ、ふざけないでよ!」
そして叫んだ。
「汐里を追い出したのは私じゃないっ!あんたよ!あんたが彼女を四年間、ただの『秘書』として囲って……名も与えずに抱いて……!
私は帰ってきただけなのに、あんたが、すぐに私を選んだじゃない!あんたが、あんたこそが彼女を捨てたのよっ!!」
その瞬間――
彼と夏目汐里の関係が、誰の目にも明らかになった。
社内では一切知られていなかったはずの秘密が暴かれ、社員たちは息を呑んだ。
介人の表情が、再び深い怒りに染まっていくのを誰もが見ていた。