ふたりが約束した場所は、静かな街角に佇む小さなカフェだった。
清原介人が扉を開けると、カランと風鈴が音を立てた。
その瞬間、彼の視線は自然と店の奥へと引き寄せられる。
そこにいたのは、変わらず静かにコーヒーを口にしている夏目汐里だった。
たった一ヶ月会わなかっただけなのに――
彼にとっては、まるで一年にも感じられる長さだった。
今、ようやく彼女に会えたという実感が、ひどく現実離れしているように思えた。
彼女は、変わっていた。
かつてはいつも秘書としての制服姿が印象的で、たとえ家で二人きりの時間を過ごすときでさえ、彼女の中にはどこか緊張感があった。
けれど今、汐里はカジュアルな服を纏い、髪を軽くまとめていた。
白く繊細なうなじが見えている――
しばらく立ち尽くしてから、ようやく彼は彼女の元へと歩み寄り、微笑みを浮かべて声をかけた。
「……汐里、久しぶりだね」
本当は、今すぐにでも彼女を抱きしめたかった。
けれど、彼はその衝動を必死に押し殺し、ただひたすらに、愛おしそうに彼女を見つめることしかできなかった。
だが、夏目汐里は、微笑み返さなかった。
「……長く話すつもりはないです。今日あなたに会ったのは、ちゃんとケジメをつけたかったからです」
そう言って、彼女は一口、コーヒーをすする。
次の言葉を口にしようとしたその時、清原介人が慌てて言葉を継いだ。
「……分かってる。すべて、俺がわるいんだ。
自分の気持ちに気づかず、遥のせいで君を傷つけてしまった……汐里、今ならはっきり言える。
……俺が愛しているのは君だけだ。心の底から――君を、愛してる」
一気にそう告げて、彼は彼女の返事を期待して見つめた。
――けれど、夏目汐里の顔に、何の変化もなかった。
感情の起伏ひとつないまま、口元だけがわずかに歪んだ。
「……遅すぎます。あなたの謝罪も、愛も、何もかもが……。話はもう終わりましたね。これ以上、言葉を交わす必要もないです」
そう告げて立ち上がろうとする彼女に、介人は思わず手を伸ばして掴んだ。
その顔は焦りに染まり、今にも崩れそうだった。
「違う、汐里……まだ間に合う! 俺たちには未来があるはずだ!
遥のことはちゃんと罰した、君が戻ってきてくれたら、全部やり直せる……!
この四年間の絆が、たった一ヶ月で消えるわけないだろ?
君が怒ってるのは分かってる、だから……だから叩いてもいい、罵ってもいい、お願いだ汐里、戻ってきてくれ!」
だが、汐里はその手を振り払った。
「……そう。たった一ヶ月で、私ははっきりと気づいたのです。
私はもう、あなたを愛していません。…私はもう、あなたの元へは戻らない。どうぞ、青山遥さんとお幸せに」
そう言って立ち上がる彼女の姿に、介人は目を見開いた。
信じられなかった。
あれほど自分を想い続けていた彼女が――
どうして、こんなにもあっさりと自分を切り捨てられるのか。
恐怖が胸を締めつける。
彼はずっと信じていた。
彼女はまだ自分を想っていると、
自分が本気になれば、きっと許してくれると――。
だが、それは幻想だった。
彼は動揺しながら、必死に彼女の手を掴み直す。
かつて誇り高かった男が、今や涙を滲ませながら、かすれた声で懇願する。
「……汐里……お願いだ……。今度こそ、ちゃんとするから……!
結婚しよう。会社も、君が続けたいなら続ければいい。辞めたいなら、主婦でも何でもいい。もう二度と君を傷つけたりしない。
全部、君のために変えるから……だからお願い、もう一度だけ、俺にチャンスを――」
もし、それが数週間前だったら。
彼女はきっと泣いて喜んでいた。
八年間、ずっと願い続けた言葉だったから。
――けれど今、その言葉は、ただの嘘にしか聞こえなかった。
彼女の中で、清原介人への感情はすでに終わっていた。
青山遥が彼女の中の何かを、完全に壊してしまったから。
八年の愛は、悔しさと虚しさへと変わったのだ。
汐里は深く息を吐き、冷静に、そしてはっきりと答えた。
「もう何度も言いましたわ。私たちには未来がないの。
あなたが“本当に好きな人”が現れたら、私は身を引くって、最初から言いましたよね?
……私は、ずっと期待していたの。
あなたも少しは、私のことを想ってくれるんじゃないかって。
でも、青山遥が戻ってきた途端、あなたは全部、彼女に戻った」
彼女のその顔を見て、介人の心は崩れ落ちた。
彼は涙をこぼし、頭を下げ、震える声で繰り返す。
「汐里……お願いだ……。最後に、やり直すチャンスを……汐里、お願い……」
彼のその声を、汐里は一切振り返らずに聞き流した。
そのまま、彼女は背を向けて、店を出ていった。
彼の目の前から――永遠に、消えていった。