彼は、カフェの片隅に座ったまま、ただ呆然としていた。
店が閉まるまで、ひとことも発さず、ひとつも動かず――。
自分が、彼女を――夏目汐里を、本当に失ったのだと、胸の奥でひしひしと感じながら、それでもどこか現実を信じられないままだった。
もし、あのとき青山遥が戻ってこなければ……
もし、自分がもう少し早く、夏目汐里への想いに気づいていれば……
もし、彼女を傷つけるような言葉を吐かなければ……。
「もしも」はいくつも思い浮かんだ。
けれど――彼にはもう、取り返す時間も、手段も残されていなかった。
異国の街を、宛てもなく彷徨い歩く。
突然、空に雷鳴が轟き、瞬く間に土砂降りの雨が降り出した。
通行人たちは慌てて傘を広げ、あるいは店先に駆け込んでいく。
けれど、清原介人だけは、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。
びしょ濡れになりながら、雨の中で――
彼は呟くように、何度も何度も、彼女の名前を呼び続けた。
「汐里……」
そのとき、震えるようにポケットの中のスマートフォンが鳴った。
期待に胸を震わせながら、画面を見る。
――清原寧々からのメッセージだった。
「……お兄ちゃん、もう帰ってきて」
たったそれだけの言葉に、彼は全身の力が抜けていくのを感じた。
どうして、俺たちはこんなふうになってしまったんだ?
次の瞬間、彼は雨の中で崩れるように膝をつき、
声を上げて泣いた。
大粒の雨音が、彼の嗚咽をすべてかき消していく。
その足で、彼は汐里が滞在しているというアパートの前まで来た。
扉は静かに閉ざされていて、明かりもなかった。
――ノックする勇気もなかった。
彼はただ、その玄関の前で小さく身を丸めて、
雨に打たれながら、そのまま意識を手放すように眠りに落ちた。
何日も眠っていなかった。
限界に近い心と身体が、ようやく短い夢の中に逃げ込んだ。
夢の中では、夏目汐里が彼を許してくれていた。
彼女は何も言わず微笑んで、彼の手を握ってくれた。
彼は彼女に指輪を差し出し、初めて言葉にした。
「結婚しよう、汐里」
彼女は涙を浮かべて微笑み、彼の胸に飛び込んできた。
――そう、これこそが、本当に欲しかった未来だった。
だが、その幸福な夢も、突如途切れる。
目を覚ましたとき、彼の頭は重く、全身が鉛のように動かなかった。
見上げた先には、見慣れない白い天井――。
かすかな音のあと、聞こえてきたのは、忘れられない声だった。
「……動かないで」
その声に、清原介人は一気に意識を取り戻す。
がばっと上体を起こし、目の前の人影を抱き締めた。
「汐里……! 汐里、許してくれたんだな!? 俺は本当に……本当に悪かった!
君を一生かけて守る! 償う! ……頼む、もう一度だけ、やり直させてくれ!」
抱き寄せた腕に力がこもる。
あふれる涙は止まらず、心の底からの懺悔が口をついて出た。
けれど――。
「……清原さん、やめてください。私はただ、寧々ちゃんの頼みだから助けたの」
冷たい声が、彼の胸に突き刺さる。
「……あなたが家の前で死なれたら、寧々ちゃんが可哀想でしょ?」
彼女は彼の腕を強引にほどくと、はっきりとした拒絶の視線を向けた。
その目に、かつての優しさも、愛しさもなかった。
あるのはただ、嫌悪――それだけだった。
清原介人の手は空中で止まり、茫然としたまま彼女を見つめる。
今なお誰よりも愛しているその人が、目の前にいる。
なのに、もう彼女の心には、自分がいなかった。
「汐里……」
かすれた声が漏れた。
彼女は視線を逸らすことなく、淡々と告げた。
「寧々ちゃんには連絡してある。もうすぐ迎えが来るわ。……それまで、ここでおとなしくしていてください」
「……汐里……頼むよ……」
「――もう終わったの。
あなたが青山遥を選んだそのときに、私たちは終わってたの」
「……そんな……違う、俺は……!」
「今さら何を言っても、遅いわ」
彼女のその声は、まるで判決文のようだった。
「私、もうあなたがいなくても平気です。ここで一人で生きていける。……むしろ、あなたがいないほうが、私は楽に呼吸ができるの」
彼は、ただ呆然と見つめるしかなかった。
彼女は、永遠に手の届かない場所へ行ってしまったのだと、
ようやく理解し始めていた。
「……本当に、俺たちは……もう戻れないのか……?」
それでも、最後の一縷の希望をかけて尋ねた。
その問いに、彼女はまっすぐ彼を見つめ、
はっきりと、ゆっくりと答えた。
「ええ。――もう、二度と」
その言葉は、彼の心を完全に打ち砕いた。
彼は涙を流しながら、震える手を伸ばし、彼女の頬に触れようとする。
――だが、彼女はその手を、容赦なく避けた。
清原介人の眼に、再び涙があふれる。
「……そうか、そうだよな……」
震える声でそう呟きながら、
彼は胸を押さえ、壊れそうなほど苦しそうに息を吐いた。
痛みで、立っていられなかった。
すべてが、終わってしまった。