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第20話


彼は、カフェの片隅に座ったまま、ただ呆然としていた。

店が閉まるまで、ひとことも発さず、ひとつも動かず――。


自分が、彼女を――夏目汐里を、本当に失ったのだと、胸の奥でひしひしと感じながら、それでもどこか現実を信じられないままだった。


もし、あのとき青山遥が戻ってこなければ……

もし、自分がもう少し早く、夏目汐里への想いに気づいていれば……

もし、彼女を傷つけるような言葉を吐かなければ……。


「もしも」はいくつも思い浮かんだ。

けれど――彼にはもう、取り返す時間も、手段も残されていなかった。


異国の街を、宛てもなく彷徨い歩く。

突然、空に雷鳴が轟き、瞬く間に土砂降りの雨が降り出した。


通行人たちは慌てて傘を広げ、あるいは店先に駆け込んでいく。

けれど、清原介人だけは、その場に立ち尽くしたまま動かなかった。

びしょ濡れになりながら、雨の中で――

彼は呟くように、何度も何度も、彼女の名前を呼び続けた。


「汐里……」


そのとき、震えるようにポケットの中のスマートフォンが鳴った。

期待に胸を震わせながら、画面を見る。

――清原寧々からのメッセージだった。

「……お兄ちゃん、もう帰ってきて」


たったそれだけの言葉に、彼は全身の力が抜けていくのを感じた。

どうして、俺たちはこんなふうになってしまったんだ?


次の瞬間、彼は雨の中で崩れるように膝をつき、

声を上げて泣いた。

大粒の雨音が、彼の嗚咽をすべてかき消していく。


その足で、彼は汐里が滞在しているというアパートの前まで来た。

扉は静かに閉ざされていて、明かりもなかった。


――ノックする勇気もなかった。

彼はただ、その玄関の前で小さく身を丸めて、

雨に打たれながら、そのまま意識を手放すように眠りに落ちた。


何日も眠っていなかった。

限界に近い心と身体が、ようやく短い夢の中に逃げ込んだ。


夢の中では、夏目汐里が彼を許してくれていた。

彼女は何も言わず微笑んで、彼の手を握ってくれた。

彼は彼女に指輪を差し出し、初めて言葉にした。

「結婚しよう、汐里」


彼女は涙を浮かべて微笑み、彼の胸に飛び込んできた。

――そう、これこそが、本当に欲しかった未来だった。


だが、その幸福な夢も、突如途切れる。

目を覚ましたとき、彼の頭は重く、全身が鉛のように動かなかった。

見上げた先には、見慣れない白い天井――。


かすかな音のあと、聞こえてきたのは、忘れられない声だった。

「……動かないで」


その声に、清原介人は一気に意識を取り戻す。

がばっと上体を起こし、目の前の人影を抱き締めた。


「汐里……! 汐里、許してくれたんだな!? 俺は本当に……本当に悪かった!

君を一生かけて守る! 償う! ……頼む、もう一度だけ、やり直させてくれ!」


抱き寄せた腕に力がこもる。

あふれる涙は止まらず、心の底からの懺悔が口をついて出た。


けれど――。

「……清原さん、やめてください。私はただ、寧々ちゃんの頼みだから助けたの」


冷たい声が、彼の胸に突き刺さる。

「……あなたが家の前で死なれたら、寧々ちゃんが可哀想でしょ?」


彼女は彼の腕を強引にほどくと、はっきりとした拒絶の視線を向けた。

その目に、かつての優しさも、愛しさもなかった。


あるのはただ、嫌悪――それだけだった。


清原介人の手は空中で止まり、茫然としたまま彼女を見つめる。

今なお誰よりも愛しているその人が、目の前にいる。

なのに、もう彼女の心には、自分がいなかった。


「汐里……」


かすれた声が漏れた。

彼女は視線を逸らすことなく、淡々と告げた。


「寧々ちゃんには連絡してある。もうすぐ迎えが来るわ。……それまで、ここでおとなしくしていてください」

「……汐里……頼むよ……」

「――もう終わったの。

あなたが青山遥を選んだそのときに、私たちは終わってたの」

「……そんな……違う、俺は……!」

「今さら何を言っても、遅いわ」


彼女のその声は、まるで判決文のようだった。

「私、もうあなたがいなくても平気です。ここで一人で生きていける。……むしろ、あなたがいないほうが、私は楽に呼吸ができるの」


彼は、ただ呆然と見つめるしかなかった。

彼女は、永遠に手の届かない場所へ行ってしまったのだと、

ようやく理解し始めていた。


「……本当に、俺たちは……もう戻れないのか……?」


それでも、最後の一縷の希望をかけて尋ねた。


その問いに、彼女はまっすぐ彼を見つめ、

はっきりと、ゆっくりと答えた。


「ええ。――もう、二度と」


その言葉は、彼の心を完全に打ち砕いた。

彼は涙を流しながら、震える手を伸ばし、彼女の頬に触れようとする。


――だが、彼女はその手を、容赦なく避けた。


清原介人の眼に、再び涙があふれる。

「……そうか、そうだよな……」


震える声でそう呟きながら、

彼は胸を押さえ、壊れそうなほど苦しそうに息を吐いた。


痛みで、立っていられなかった。

すべてが、終わってしまった。



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