まもなくして、清原寧々が駆けつけてきた。
夏目汐里からの電話を受け取るなり、彼女は一秒でも早くと飛んできた。
ひと月ぶりの再会。
寧々は玄関を開けるなり、ためらいもなく親友の胸に飛び込んだ。
「汐里っ……!」
夏目汐里は驚いたように目を丸くしたあと、ふっと表情を緩めて彼女を受け止めた。
「寧々ちゃん、来てくれてありがとう」
二人は並んで腰掛け、しばし言葉を交わす。
だが、別れの時間が近づくと、寧々はそっと視線を落とし、申し訳なさそうに口を開いた。
「……本当にごめん、汐里。私、あんなふうにお兄ちゃんに連絡を取らせるべきじゃなかった。
余計な混乱を招いちゃって……」
その言葉に、夏目汐里は小さく笑いながら、寧々の頬を優しくつまんだ。
「いいのよ。たとえ寧々ちゃんが何も言わなくたって、あの人は勝手に動いてたはずだし。長く苦しむくらいなら、一度きちんと終わらせた方が、お互いのためでしょ」
そう言われても、寧々の罪悪感は晴れなかった。
兄が、あの夜にどれだけ無茶をしたかを思い返すたびに、胸が痛んだ。
まるで命を削るようにして雨の中に立ち尽くしていた兄――
いまだに、遠巻きにこの部屋を名残惜しそうに見つめている彼の姿に、
寧々は思わずぽつりと尋ねてしまった。
「ねぇ汐里……もし、あくまで“もしも”の話なんだけど……
もしもあのとき、青山遥さんが戻ってこなかったら、汐里は……お兄ちゃんと付き合ってたと思う?」
その質問は、彼女自身もずっと気になっていたし、
何より――すぐそばにいる清原介人本人も、心の底から答えを欲していた問いだった。
夏目汐里は、ふっと小さく笑った。
その問いは、かつて自分自身も何度も頭の中で繰り返したことがある。
だが――
この一ヶ月を経て、彼女はようやく分かったのだ。
たとえ青山遥がいなくても、きっと別の誰かが現れた。
彼が自分を愛したのではなく、“失ったこと”に対する執着だったのだと。
耳元の髪を指で軽く払って、彼女は穏やかに、でもはっきりと答えた。
「……付き合ってなかったわ」
誰も理由は聞かなかった。
けれど、それぞれがもう――その答えを知っていたのかもしれない。
そして、清原寧々は兄を連れて帰国した。
帰国後すぐに、清原家の経営状態はひどく傾き、介人にはもう立て直す気力も残っていなかった。
結局、その後始末を任されたのは、戻ってきたばかりの寧々だった。
幸い、留学時代に経済学を学んでいたおかげで、何とか初動はこなせそうだ。
だがその彼女が、会社の引き継ぎを始める前に、兄に封筒を差し出した。
「……海外にいる間に、いろいろ調べたの。見てみて」
中にあったのは――青山遥に関する情報だった。
彼女は、海外留学中はほとんど学業に身を入れず、
複数の外国人と関係を持ち、中絶経験すらあったという。
それを見た瞬間、清原介人はふと、かつての彼女の姿を思い出そうとした。
だが――思い出せなかった。
初恋の思い出は、十年という歳月の中で薄れ、擦り切れていたのだ。
気づけば彼の中に残っている顔はただ一人、
笑って、怒って、泣いて――
いつだってまっすぐに自分を見つめていた夏目汐里の姿だけだった。
けれど、次の十年が過ぎたとき――
果たして、彼は今度こそ彼女を忘れられるのだろうか?
胸の内に湧き上がったそんな疑念と虚しさを、彼はただ、静かに飲み込んだ。
自分が犯した過ちのすべてが、今の結果を招いた。
青山遥のことも、本当はずっと知っていた。
それでも彼は、曖昧な感情と“かつての想い”にすがり、
何よりも大切にすべきだった人を、手放してしまった。
写真を見つめても、もう何の感情も湧かなかった。
彼の心は――そのとき、すでに死んでいたのかもしれない。
「……ありがとう、寧々。
もう少しだけ時間をくれたら、心配はかけないようにする」
枯れたような声でそう告げ、ふと何かを思い出したように、彼は寧々の方へ笑いかけた。
「そうだ、忘れてた。お前に返さなきゃいけないものがあるんだった」
そう言うや否や――彼は自分の頬に、ためらいなく、平手を打ちつけた。
パァンッという音が部屋に響き、その場にいた寧々は目を見開いた。
「お兄ちゃんっ!? ちょ、何してんのよ!!」
腫れ上がった頬を押さえながら、清原介人は淡々と答える。
「……前にお前を殴ったよな。悪かった、妹。今ので帳消しってことで」
寧々の顔が曇る。何かを言おうとしてはやめ、伸ばしかけた手を引っ込めて、溜息をついた。
「……もう。ほんとバカなんだから。
でも、もう同じことはしないでよ?
もしかしたら、次は“新しい汐里”が現れるかもしれないんだから。
そのときは絶対に、ちゃんと大切にしなきゃダメよ」
明るく笑って手を振る妹を、介人は何も言わず、ただ静かに見送った。
彼は分かっていた。
――次の夏目汐里なんて、どこにもいないのだと。
胸の奥に浮かんだその想いを、
言葉にはせず、黙って飲み込んだ。
彼は、手にした写真を抱え、
無言で、地下室へと足を運んでいった。