2.1 守ってくれた幼なじみ
王宮での突然の婚約破棄から数日が経った。公爵令嬢オードリーの胸には、依然として深い喪失感と混乱が渦巻いている。
かつては「近い将来、王太子妃となるべき女性」として周囲からもてはやされた自分が、今はまるで厄介者扱いだ——そう思えば思うほど、気力が失せ、昼夜を問わず憂鬱な時間を過ごす日々が続いていた。
婚約破棄の夜会から戻った翌朝、オードリーは自室の鏡に映った自分を見て、驚くほど痩せてやつれた姿に言葉を失う。
「これが、ほんの数日前まで王太子殿下との婚約を祝福されていた私……?」
頬はこけ、唇は血色を失い、金色がかかった美しい髪も艶をなくしている。自分で見ても惨めで、そこに映っている存在が別人のように思える。
この数日の間、公爵家には不穏な空気が立ち込めていた。オードリーを想う両親もまた、面子を潰された悔しさと、王家へ対抗するすべのなさを痛感し、苛立ちや不安を隠せずにいる。王家という絶対的権威を前に、公爵家であろうともそう簡単に刃向かうことはできない。
周囲の人々や友人たちも、王太子に見放されたオードリーを警戒するかのように遠巻きにし始めた。王宮での醜聞はまたたく間に貴族社会へ波及し、一夜にして“公爵令嬢オードリーは何かしらの不義を働いたらしい”という根拠のない中傷が広まっている。
そんな苦境のただ中にあって、オードリーを支えてくれたのは幼なじみのユージンだった。
ユージン・シンクレア。彼は近衛騎士として王宮で働く若き騎士だが、幼い頃は公爵家の領地内にある騎士学校に通っていたため、オードリーとは幼少期からの仲である。家柄は違えど、お互いに気兼ねのない友人として成長し、いつしかユージンは“守る”ことを天職とする騎士の道を選んだ。
だが、オードリーが王太子との縁組みが正式に決まったころから、二人は同じ場にいる時間が減りがちだった。王家の行事に駆り出されるオードリーを遠目に見ながら、ユージンは常に「いざというときは助ける」と心に誓っていたが、実際にその“いざ”が訪れるとは予想していなかっただろう。
夜会から帰宅した日、オードリーは馬車の中で初めてユージンの前で涙をこぼした。いつもなら気丈に振る舞い、弱音を吐かないはずの彼女だったが、あの日ばかりは衝撃と悲しみ、そして屈辱に耐えきれなかった。
「どうして……どうしてあんな仕打ちを……?」
ただそれだけを繰り返し呟いては、オードリーは静かに泣き続ける。ユージンは黙って彼女の隣に座り、ハンカチを差し出しながら背中を支えていた。彼女が少しでも落ち着くよう、硬い甲冑ではなく柔らかな言葉で包み込む。
「つらいだろうね……。でも、僕はずっと君の味方だよ」
その温かな声が、オードリーの耳にはかすかな救いとして響いた。あの夜以来、オードリーが胸の内をさらけ出して頼れる相手はユージンだけとなっている。
翌日以降も、オードリーは深い悲しみの中にいた。王宮からは、早くも彼女を行事や催しから外すような通達が届き、貴族社会にも悪意ある噂が広がっている。かつて友好的だった人々がどこかよそよそしい態度を取るようになった今、オードリーは自分が居場所を失いつつあるのを肌で感じていた。
そんな彼女のもとを、ユージンはできる限り頻繁に訪れる。近衛騎士としての職務をこなす合間を縫って、公爵家まで馬を走らせ、彼女の容体や気持ちを気遣ってくれる。
「オードリー、今日は少しでも食事を取れたか? 顔色がまだ良くないようだが……」
ユージンの問いかけに、オードリーはかろうじて笑みを作る。
「ありがとう。スープだけは飲んだの。でも、やっぱり食欲がなくて……ごめんなさい、心配ばかりかけて」
「いいんだ。何も謝ることはない。ただ、無理をしない程度に少しずつでも口にしてくれ。君が倒れでもしたら、公爵家がさらに混乱してしまう。いや、僕自身が……君を失うのは嫌だから」
最後の言葉を発する際、ユージンの目は真剣そのものだった。オードリーはその眼差しに、かすかな熱を感じる。アルベルトとは決定的に違う“優しさ”が、ユージンにはあった。
ある日の午後、ユージンはオードリーを外へ連れ出すことを提案する。
「このまま部屋に閉じこもっていては、気がめいる一方だ。少し気晴らしに散歩でもどうだろう?」
オードリーは最初こそ躊躇したが、ユージンの熱意にほだされて頷く。場所は、王宮ではなく公爵家の敷地内にある温室だ。植物の手入れをしている者は限られており、あまり人目に触れることもないという理由もあった。
半ば強引に彼に腕を引かれるようにして、オードリーは久しぶりに屋敷の外へ出る。季節はまだ早春で肌寒く、吐く息が白い。しかし、温室の中に足を踏み入れると、そこには外界と違う穏やかな空気が広がっていた。
ガラス張りの天井から陽光が差し込み、色とりどりの花々と瑞々しい緑がきらめく。オードリーはその美しさに思わず息を呑む。
「こんなにたくさんの花が……。私、全然知らなかったわ。いつの間にこんなに咲いたのかしら」
近衛騎士としての立ち居振る舞いとは違う、柔和な微笑みを浮かべたユージンが答える。
「公爵家の温室は評判だからね。季節を先取りして花を咲かせる技術を持つ庭師がいると聞いている。僕もここに来るのは初めてだけど、想像以上に華やかだ」
ふと見ると、オードリーの頬が少しだけ赤みを帯びている。冷えた空気のせいか、それとも花の香りに和まされたのか。彼女の表情からは、久しぶりに陰鬱さが消えかけていた。
「ありがとう、ユージン。私をここへ連れてきてくれて……。少しだけ、気が紛れたわ」
「そうか。良かった。君が笑ってくれるなら、いくらでも連れ出すよ。遠出は難しいかもしれないけど、敷地内や近郊なら時間を作れる」
「……まだ、王宮に行くのは怖いの。私に向けられている視線が、すべて批難と侮蔑に思えてしまって」
オードリーがささやくように告白すると、ユージンは真剣な眼差しでうなずいた。
「無理をする必要はない。でも、そのままずっと逃げ続けるわけにもいかない。いつか、正面から向き合わなければならない時が来る。僕は、君がその時に立ち上がれるよう、支えたいと思ってる」
オードリーは彼の言葉に小さく首を縦に振る。自分を受け止めてくれる存在がいるだけで、少しだけ気持ちが軽くなる気がするのだった。
こうしてユージンの励ましを受けながら、オードリーは少しずつ日常を取り戻そうと努力を始めた。食事を取り、軽く屋敷内を散歩し、時には温室で花を眺める。気分が優れない日は部屋で静養するが、寝込んでばかりの状態からは脱却しつつある。
しかし、外の世界——とりわけ王宮や貴族社会の動きは、刻一刻とオードリーの不利になる方向へ進んでいるのだった。
2.2 燃え上がる妬みと策謀
王太子アルベルトの婚約破棄宣言から、まだ間もないというのに、伯爵令嬢ソフィアは活発に動いていた。まるで最初からこの状況を狙っていたかのように、王宮内で多くの茶会や勉強会を主催し、わずかな期間で影響力を拡大している。
ソフィアは元々社交界でそれなりの人気を博していたが、オードリーが“王太子妃候補”として注目されていた頃は、表立って目立つことはなかった。しかし、オードリーが凋落した今、彼女はその空白を埋めるように王宮の華やかな舞台へと躍り出る。
そして多くの貴族たちが、次なる王妃候補として彼女に擦り寄り始めた。ソフィア自身もそれを受け入れるように、あれこれと企画を立ち上げ、王太子とともに新しい施策を模索するふりをしている。実質的には「オードリーが外された分の場所をソフィアが奪っている」構図であった。
そんなソフィアの動きには、一つの共通点がある。それは「オードリーの悪評を密かに広める」ことだ。貴族社会では根拠のない噂でも、ある程度の地位や人脈を持つ者が吹聴すれば、それなりに真実味を帯びて広がってしまう。
例えば、ソフィアの茶会に参加したある侯爵夫人は、後にこんな噂を口にしていた。
「公爵令嬢オードリーが王太子殿下を誑かしたのは、己の財産や権力を強固にするためだったそうよ。真実を知った殿下が嘆き、仕方なく婚約破棄を……という話をソフィア伯爵令嬢が案に示唆していたわ」
他にも、「オードリーは嫉妬深い性格で、アルベルト殿下に執拗に手紙を送りつけ、束縛しようとしていた」という荒唐無稽な話もまことしやかにささやかれている。
真っ赤な嘘であるにもかかわらず、多くの人々がその噂を面白おかしく語り、ソフィア本人は「まあ、あくまで噂話ですけれど……」などと否定も肯定もしない巧みな態度を取り続けていた。
オードリーのもとにも、そんな悪評が飛び込んでくる。屋敷の侍女が、市井で聞いた話として報告してくれることもあれば、ユージンが王宮内の近衛騎士仲間から得た情報を教えてくれることもある。そのたびにオードリーは心を痛め、同時に強い怒りを覚えるのだった。
「なぜ、彼女はそこまでして私を貶めるの……? いくら王太子妃の座を狙っているとしても、ここまで悪辣に振る舞う理由がわからないわ」
怒りに震えるオードリーに、ユージンはできる限りの慰めをかける。
「ソフィアの背後に誰かいるのかもしれない。あるいは、彼女自身が極めて野心的で、君の存在を完全に消し去りたいのか。いずれにしても、こうも大掛かりに悪評を流されるのは尋常じゃない」
オードリーは頷きながらも、不安を拭えないでいる。そもそも、王太子アルベルト自身が“オードリーに落ち度があった”と信じているからこそ、あの日の夜会で婚約破棄を宣言したのだろうか? それとも、何らかの取引や裏事情があって、彼女を切り捨てたという可能性もあるのだろうか?
公爵家の中でも、王家への反発を強めるわけにはいかないという空気がある。公爵であるオードリーの父は、何とか王太子やソフィア側と話し合いの場を設けようと動いてみたものの、そもそも王宮側から取り合ってもらえない状態だ。
「……今は時期が悪い。迂闊に動くと、かえってこちらに不利な証拠を捏造される恐れもある」
父のその言葉に、オードリーは歯噛みする思いを抱く。悪評がどんどん広まる一方で、このまま黙っていれば自分が“悪女”だという誤解はますます強まってしまう。だが、それを公に否定するすべもないというのが現状だ。
さらに、ソフィアの手は周到だった。オードリーが幼少期から親しくしていた貴族の令嬢たちにまで根回しを行い、いつの間にか彼女らを味方につけている。オードリーが書いた手紙や、昔の遊びの中で語られたプライベートな話などが、悪意をもって解釈されてソフィアの茶会で共有されることすらあるという。
かつての友人たちがまるで他人のように振る舞い、ソフィアに“秘密の暴露”を持ち寄る話を聞くたび、オードリーは傷口を抉られる思いをする。もちろん、その「秘密」の多くは誇張された噂話であり、ほとんどが事実とは異なる。しかし、疑惑を抱いた人々はそれを面白がるように広めるのだ。
「友人だと、思っていたのに……」
オードリーは震える声で呟く。心の中にぽっかりと穴が空いたようで、信じていた人々の裏切りに対して怒りや悲しみ以上の虚しさを感じる。
そうした陰謀渦巻く状況下で、オードリーは日に日に孤立を深めていく。“王太子との婚約破棄”という大問題を起こした人物として警戒され、下手に接触すれば相手側にも不利益が及ぶかもしれないという思惑が働くのだ。
屋敷に届く手紙も、彼女を遠ざけるような内容ばかりになった。以前なら「サロンにご一緒しましょう」「お茶会に来てください」といった誘いが絶えなかったのが、今では「残念ながら席に余裕がありません」「今回は顔ぶれ的に気まずいかと……」など、断り文句ばかり。中には露骨に「これ以上、私たちのグループに関わらないでください」と冷淡な言葉を送ってくる者もいる。
(私が何か、取り返しのつかない罪を犯したの? ただ……王太子殿下に婚約を破棄されただけで……こんなにも周囲が変わるなんて)
オードリーの中で、悔しさと悲しみがせめぎ合う。誇り高い公爵令嬢として育ち、誰にも負けない礼儀と品位を身につけてきたはずなのに、今やその努力は踏みにじられ、噂だけが一人歩きしているのだから。
そして何より、オードリーの心を締めつけるのは「アルベルトが何も説明してくれない」ことだ。あの夜会の場で一方的に婚約破棄を告げた彼は、オードリーに個別の言葉をかけることすらなく、その後はソフィアの隣に収まった。それだけで、どれほどオードリーの胸が痛んだことか。
(王太子殿下は、私をどう思っていたのかしら。あれほど長く時を過ごしたのに、結局、私を道具のように扱って切り捨てたのだとしたら……)
裏切りとも呼べる仕打ち。その背景には、王家や貴族間の政治的な計算があったのかもしれない。だが、そうだとしてもオードリーは納得できない。人を踏みにじってまで利益を得ようとするやり方を、王家のトップを継ぐ立場のアルベルトが選んだのなら、到底許せるものではなかった。
こうして燃え上がる妬みと陰謀は、オードリーの周囲を容赦なく追い詰めていく。どこへ行っても疑惑の視線と陰口が付きまとうことを思うと、彼女は自分の殻へと閉じこもるしかない。温室の花のように外の世界から隔離されたまま、ただ静かに息を潜めている状態にあるのだった。
そんなある夜、オードリーは夢うつつの状態で寝台に横たわっていた。窓の外は風が強く、木々が不気味に揺れている。夜会での屈辱がフラッシュバックし、うなされるように目を覚ましたオードリーは、喉が乾いていることに気づいてベッド脇の水を口に含む。
「私は悪くない……悪くなんかない……」
自分に言い聞かせるように小さく呟いてみても、張り詰めた胸の奥の苦しさは消えない。再び眠ろうとまぶたを閉じた瞬間、廊下で物音がした。
扉をノックするでもなく、床板がきしむようなかすかな音がしてすぐに消えた。それが強盗や不審者の類いではなく、侍女の巡回か何かであろうと頭では理解しつつも、このところの心労からか、オードリーはぎゅっと胸を抱いて怯えてしまう。
もし、ソフィアの一派が公爵家まで手を回していたら? あるいは、もっと別の勢力が私を狙っているのでは——そんな考えが脳裏をよぎり、次から次へと不安が押し寄せる。
(誰か、助けて……誰でもいい、私をこの悪夢から救い出して……)
心の中で叫ぶように願っても、現実は非情だった。オードリーはただ、自分が安全だと信じたい寝台の上に身を横たえ、騎士であるユージンが明日また励ましてくれることを切実に望んでいた。
2.3 謎めく家宝の指輪
そうした息苦しい日々の中で、オードリーにとって印象的な出来事があった。それは、母がある品物を彼女に手渡したときのことだった。
ある朝、オードリーがまだ重い気分のまま寝室でぼんやりしていると、母が静かに部屋に入ってきた。いつも優しく穏やかな母だが、その表情には深い憂慮と決意の色が見て取れる。
「オードリー、ちょっと話したいことがあるの。いいかしら?」
「ええ、もちろん……。お母様、朝からそんなに深刻な顔をして……何かあったの?」
母は言葉を濁すように視線を伏せながら、小さな木箱を彼女の目の前に差し出す。箱には古めかしい紋章が刻まれ、公爵家の伝統を思わせる重厚さがあった。
「これはね……公爵家に古くから伝わる指輪なの。代々の公爵夫人——つまりは私たち女性の血筋で受け継いできたもので、いわば家宝のようなものよ」
オードリーは目を見開いた。そんな指輪が存在することは薄々知っていたが、実際に見たのは初めてだった。箱を開けると、中には繊細な彫刻が施された銀の指輪が一つ、まるで白銀の花弁を重ね合わせたような装飾が印象的だ。中心には淡い光沢を放つ青い宝石が埋め込まれている。
「綺麗……でも、どうして今、これを私に?」
オードリーが指輪を手に取ると、母は静かに言い聞かせるように語り始める。
「この指輪には、いにしえから『身に危機が迫ると不思議な力を発揮する』と伝えられているの。伝承が古すぎて、実際にどんな力なのかははっきりしないけれど……公爵家の娘が大きな困難に直面したとき、その身を守ることがある、という噂があるの」
オードリーは少し苦笑いを浮かべた。そんな迷信じみた話を真に受ける余裕はないが、母が自分を心配している気持ちは痛いほど伝わってくる。
「そんな、魔法のようなことがあるのかしら。私にはちょっと信じられないけれど……」
「私だって本気で“魔法”を信じているわけではないの。ただ、こういう非常事態だからこそ、先祖から受け継がれてきた力にすがりたいと思う気持ちは……わかってほしいの」
母は指輪を持つオードリーの手をそっと包み込む。
「あなたは王太子殿下の婚約者として、苦しい努力を重ねてきた。それが突然、理不尽な形で踏みにじられ、心がどれほど痛んでいるか——私には痛いほどわかるわ。だから、この指輪が少しでもあなたの助けになればと願っているの」
母の瞳には涙がにじんでいる。オードリーはその姿を見て胸が熱くなった。
「ありがとう、お母様……。その気持ちだけで、私はもう少し頑張れる気がするわ。この指輪に本当に力があるのかどうかは別として……せっかく授けてくれるなら大切にする。私を守ってくれる“お守り”だと思って」
そう言って、オードリーは青い宝石がはめ込まれた指輪を、そっと左手の薬指にはめようとした。サイズはわずかに大きめだったが、抜け落ちない程度には馴染む。すると、指輪の宝石が微かな光を帯びている気がしたが、それは一瞬の出来事で、オードリーは「気のせいかしら」と首をかしげる。
母は安堵の表情を浮かべ、「ご飯を食べに広間にいらっしゃい」と言い残して部屋を出ていった。
その日以降、オードリーは指輪をはめたまま過ごすようになる。もちろん、“奇跡の力”のようなものが自分に与えられるとは考えていない。けれども、何か心にぽっと灯がともったような、説明のつかない安心感が芽生えたのは確かだった。
——だが、その“安心感”も長くは続かない。ソフィア伯爵令嬢による嫌がらせはさらにエスカレートし、さまざまな工作が進められていると噂されていた。例えば、王宮の一部書庫からオードリーに不利な記録を探し出そうと躍起になっている、だとか。あるいは、公爵家の資金繰りを混乱させようとする動きがあるのではないか、といった情報がちらほら聞こえるのだ。
公爵家としては、そうした動きを放置すればいずれ大きな痛手を負うかもしれない。しかし、王太子と結託している可能性のあるソフィアに正面から挑むのはリスキーだ。こうして政治的にも精神的にも追い詰められた状況で、オードリーは大切な家宝の指輪を握りしめながら、自分を奮い立たせるしかなかった。
「大丈夫……私は絶対に負けない。いつか必ず、この真実を暴いてみせる。そのためには、何をすればいいのかしら……?」
夜の寝室で、明かりを落としたランプの下、オードリーは一人、指輪を見つめて小さくつぶやく。宝石の奥で仄かに光がゆらめいた気がしたのは、気のせいではないのかもしれない——そんな予感だけが、彼女の胸を支えていた。
その直後、オードリーはうとうとと眠りに落ちる。そして夢の中で、どこか遠くから聞こえてくる声を感じた。
「汝、正しき道を歩めし者に力を与えん……」
はっきりとは認識できないほど淡い声。それでも確かに自分を呼んでいるようで、オードリーは胸の奥が妙に熱くなるのを感じる。どこか懐かしささえ帯びた響きに導かれ、彼女は深い眠りに吸い込まれていった——。
翌朝、オードリーが目を覚ますと、指輪の宝石は静かに光を鎮めていた。まるで昨夜の夢が現実だったのか、ただの幻だったのか区別がつかない。だが、オードリーの胸には確かな決意があった。
(ソフィアや王太子殿下が何を企んでいようと、このまま泣き寝入りするわけにはいかない。私には支えてくれる人がいる。ユージンもそう、両親もそう。そして……もしかしたら、この指輪さえ私に何かを与えてくれるかもしれない)
そう強く思うと、不思議と身体に力が漲ってくる気がした。オードリーは一息つき、鏡の前に立って身だしなみを整える。うつろだった瞳には、ほんの少しだけ意志の光が戻っている。
こうして、古くから公爵家に伝わる不思議な指輪が、オードリーにとって“最後の拠り所”として胸に宿り始めた。まだ何がどう変わるわけでもないが、これが後に彼女の運命を大きく左右するきっかけとなることを、当のオードリーは知る由もない。
だが確かに、運命の歯車は動き出している。
苦しみに耐えるだけの時間は終わりに近づき、やがてオードリーは自ら真実を追い求め、反撃の手立てを講じる覚悟を固めていくのだ。