「夢乃」
絶望しながらアパートの前に着いたその時、ちょっと真剣な雰囲気でたっくんが私を呼んだ。
私はつられて真面目に向き合う。
「は、はい……」
たっくんは広い横断道路を渡ろうとしているみたいに、右を向いて左を向いてもう一度右を向いてから私を見た。
「さっきは……お前の気持ちを疑うようなことを言って悪かった」
──やっぱりお前、俺のこと好きじゃなかったんだろ。
あれか。
確かに、あの時の顔は怖かった。
謝るなら文言よりも顔面の方で謝ってほしいけど。
「もう、いいんです。分かってもらえたら、それで……」
「お前の気持ちは、嬉しかった」
たっくんは赤くなりながら「だけど」と呟く。
「電車の中とか目立つところで、あんま大きな声で……好きとか言うなよ。周りの奴らからもジロジロ見られたし……照れんだろ」
たっくんは恥ずかしそうに口元を覆って顔から湯気を出した。
いやいやいや。言わせたのは、あなたでしょう⁉︎
みんなが見てたのもあなたの髪が赤いせいだしっ! みんな怖がってただけだし!
何で私が注意されなきゃいけないのーっ⁉︎
あんな公開処刑させられて、こっちが恥ずかしいよ、まったくもう。
私の頬もぷち怒りと羞恥心で火照ってくる。
「甘えたい気持ちも分かるけど、あんまイチャイチャしてっとからんでくる
「ご、ごめんねたっくん。もう好きって言わないようにするね」
「いや……」
口ごもるたっくん。
なに? 好きって言ってほしいのか⁉︎
うぅ、悔しいけどドキドキする。
たっくんが真っ赤な顔で懸命に私を見つめようとしているから、私も視線が外せなくて……。
緊張感で喉が渇き始めた時だった。
たっくんが意を決したように口を開いた。
「俺らが付き合ってることはあんまベラベラしゃべんねー方がお前の身のためだと思う。けど、その代わり……」
「その代わり……?」
「二人でいる時は……遠慮しなくていいからな」
照れ顔で、たっくんがボソッと言った。
か、勘違いしないで!
あんたなんて、好きじゃないんだからねっ!!
……と言いたいけど、なんかキュンとしちゃったよ! どうしてくれるのさ。
「はい……」
私はモジモジしながら頷いた。
恥ずかしい。
早く家に帰りたい!
するとたっくんは。
「遠慮しなくていいからな」
蒸気機関車みたいに湯気を出しながら、もう一回同じことを言った。
……ん? もしかして、何かを期待されてます?
「え、えーと……その……」
好きって言えって? ここで?
辺りをキョロキョロ見回してみる。幸い、ご近所の人は誰もいない。
でも恥ずかしい!
「あの、こんなところじゃ……ちょっと」
「あ”あ?」
「わ、分かりましたっ。言いますっ」
脅されたので仕方なく。
「す……好きです、たっくん……」
私は顔を覆いながら告白した。
くそう、魔王め。
純情むすめの私に何度こんな恥ずかしいことを言わせるのっ?
恥辱に震えていたその時だ。
「……俺も……夢乃が……」
死に際の蚊のような声がした。
チラッと指の隙間から覗くと、たっくんも地雷を踏んだような顔をしてプルプル震えながら耐えていた。
言わせたくせに、自分も被爆しないでよっ!
「それじゃ!」
もう耐えきれなかった。私は一目散にアパートの階段を駆け上がって自宅に戻った。
「もーう! 最悪ーっ!」
制服も脱がずにベッドにばふんと飛び込んで、枕に顔を埋める。
なんで私がこんな目に。
木更先輩が好きなのに……今や私は魔王に囚われの身となってしまった。
明日からどう生きていけばいいのか分からない。
ふと横にあった勉強机の方に顔を向けると、そこには木更先輩の卒業式の日に精一杯頑張って撮らせてもらったツーショット写真があった。
人気者だった木更先輩のそばにはいつも人だかりがあって、なかなか近くに行けなかったな……。
順番を待ちに待って、ようやく声をかけた時だった。
私に奇跡が起きた。
「君、あの時のドジな子だよね」
階段で助けられてから三ヶ月以上経っていたのに、先輩はまだ私のことを覚えてくれていたのだ。そして……。
私はそっと起き上がり、机の一番上の引き出しに大事にしまってあったものを手のひらに乗せた。
木更先輩からもらった、第二ボタンだ。
脳裏に浮かぶあの日の木更先輩は、魔王と違ってサラサラした黒髪をまだ冷たい春の風に揺らしていた。
「君……あの時のドジな子だよね」
二年前の三月。卒業式の日。
「は、はい! 私のこと、覚えていてくれたんですか⁉︎」
「うん。何故か印象に残ってて」
まともにしゃべったのはその時が初めてだった。破壊力抜群の笑顔に、私のハートは震えまくりで、正直他に何をしゃべったのか細かくは覚えていない。
ただ、必死に先輩と同じ高校を受けるつもりです! というアピールをしたことだけは覚えている。
すると先輩は嬉しそうに
「そうなんだ。同じ高校に通えたらいいね。待ってるよ」
と王子様のように微笑んでくれた。
私は完全にのぼせ上がって、こんなことをお願いした。
「あのっ……受験のお守りにしたいので、先輩の第二ボタンくださいっ……!」
そこで私は、先輩のシャツ以外のボタンがカフスまで全部なくなっていることに気がついた。順番待ちしている間にきっとみんな取られてしまったに違いない。
ガッカリしたその時、先輩が自分のポケットから何かを取り出した。
「誰にもあげずに取っておこうと思って外しておいたんだけど……お守りにしてくれるなら君にあげようかな」
「こ、これって……」
「大事にしてくれる?」
先輩が私にくれたのは、キラキラ光る第二ボタンだった。
「い、いいんですかっ?」
「うん。その代わり、受験頑張ってね」
その時、私は決めた。
必ず受験に合格して、先輩のいる高校に入学する。
そして、もしもその夢が叶ったら……先輩に告白するって。
私の成績じゃちょっと難しいって言われていた高校だったけど、このボタンとツーショット写真を見ながら毎日徹夜で頑張った。
いつか先輩の隣に並んで歩く存在になれたらいいなって思いながら……。
それなのに……。
「たっくんの、バカ!」
私は枕を拾い上げてグーパンチした。
私の純情を邪魔する憎き魔王は、絶対に許すまじ!
いつか絶対に倒してやる!
私は木更先輩の第二ボタンにそう誓った。