数日後の夜、リオンを寝かしつけていると、控えめなノックの音が扉越しに響いた。
「……開いてるから、入って」
静かに扉を開けて現れたのは、ひとりの青年だった。灰色がかった茶色の短髪を軽く耳にかけ、控えめに頭を下げる。
「奥様……。こちら、書類の整理中に見つけました。置きっぱなしになっていたようです」
そう言って差し出されたのは、使い古された薄茶色のノートだった。
表紙には、かすれた文字でこう書かれている。
《記録:リオンの体調・観察・使用薬草一覧》
──リオン。あの子の名前。
彼から受け取ると、思わずページをめくる。
そこには拙いけれど丁寧な字で、子どもの日々の様子がびっしりと書かれていた。
「○月×日、咳き込みが酷い。朝は機嫌がよかったが、午後ぐずぐず」
「○月△日、薬草茶を飲まず。嘔吐。夜、熱あり」
私は、いつの間にかページをめくる手を止める。
「このノートはどうしたの……?」
問いかけに驚いた表情の青年は、静かに一言だけ答えた。
「……奥様がご自身でお書きになったものでございます」
私のものだった、ということになっているノート。でもこの字は明らかに、私の筆跡じゃない。
私なら、もっと効率的にまとめるもの。
それでも、このノートには――。ただひたすら、必死に子どもを守ろうとした想いがにじんでいた。
「……きっと心配だったんだね、この子のこと」
記録のなかの小さな一文。
──夜、リオンの手が冷たかった。
──ごはんを残したあと、眠そうに目をこすっていた。
そのひとつひとつに、エリシアの思いが詰まっている。
「……持って来てくれて、ありがとう」
そっと呟いた私に、青年は驚いたように一瞬だけ目を見開く。彼はふっと微笑むと、静かに一礼して立ち去って行った。
◆
この屋敷の中はいつも静かだ。だけど、探るような視線をいつも感じていた。
使用人たちがヒソヒソと話しながら、物陰からこちらを
──後妻様はまた様子が変わられたようだ。
──部屋にこもりがちで、坊ちゃまとも距離を置かれていたのに急に……。
「めんどくさ……」
小さな噂が、耳に届かないふりをするのにも慣れてしまった。それでも――。
リオンが私を見上げて、『母しゃま』と笑うとき。それだけで、私はすべてを忘れることができた。
昼間は元気なリオンも、夜になるとまた小さく咳き込んで熱を持つ。
何かが、潜んでいる予感がする。誰かの悪意のある何か――。
「もっと詳しく、リオンのことを調べないといけないよね……。どうするのが1番いい?」
リオンが昼寝している間、彼の側で私は小さく息を吐き、受け取ったノートをそっと胸に抱きしめた。
──エリシアが守ろうとしたこの子を、私が守ってみせる。
それはまだ、頼りない覚悟だったかもしれない。けれど私は、確かに1歩を踏み出した。