ある日の朝。リオンは、ベッドの中で少しだけぐずっていた。
昨夜も、微かに咳き込んでいたせいだろう。私はそっと彼の背中を撫でながら、ベッドから起き上がらせた。
「おはよう、リオン。今日はいい天気よ?」
「……おはよ、母しゃま」
眠たげな声が、胸にじんわりと沁みる。
リオンを連れて食堂に向かうと、見慣れない少年がそわそわと待っていた。
髪を後ろで束ねた、まだあどけなさの残る料理見習いだ。
「お、おはようございます、奥様! 坊ちゃまのお食事を、お持ち致しました!」
元気な声とともに彼が運んできたのは、湯気の立つふわふわの白いパンと、やさしい香りのスープ。
「あなたがこれを作ってくれたの?」
微笑んで尋ねると、少年は顔を真っ赤にしてうなずいた。
「坊ちゃま用に、柔らかくて食べやすいようにと思いまして……!」
リオンは目を輝かせると、小さな手でパンを掴む。
「ぱん、ぼく食べたい……!」
「ありがとう、リオンも喜んでいるみたい」
私は、少年の目を見ながら礼を言った。
(……この子は、味方になってくれそうに見えるけど)
どこか不器用だけど、真っ直ぐな雰囲気が彼にはある。
──けれど。
ふと、別の使用人が運んできた肉料理の匂いに、微かな違和感を覚える。
胸の奥で小さな警鐘が鳴る。
(……少し、香草の香りが強すぎない?)
胸の奥に、ひっかかるものがあった。だが、今はまだ確信が持てない。
私はわざと肉料理の皿を遠ざけ、リオンの口に入らないようにする。手は自然を装ったけれど、胸の鼓動は少し早まっていた。
朝食を終えた頃、執事のエルマーが控えめに近づいてくる。
「奥様。旦那様が本日、屋敷へ一時帰還なさいます」
「分かったわ……」
(……ああ)
心の中で深いため息をつく。あの人に会うのは、憂鬱以外の何ものでもない。
別に、今さら何かを期待しているわけじゃない。私にはリオンがいればそれでいいから。
昼過ぎ、玄関ホールに現れた夫は、戦装束のまま少し疲れた顔をしていた。
見た目だけなら完璧な美丈夫。けれど、その瞳はどこか空虚だ。
「おかえりなさい」
淡々と頭を下げる。抱きかかえたリオンは私にしがみつきながら、じっと彼を見た。
夫は、僅かに眉をひそめる。その表情は困惑しているのか……。
(なんで、そんな目で見るの? ……まあ以前は、エリシアの顔すら見ようとしなかったけどね!?)
嫌だったけど、形式上夕食の席を彼と共にすることになった。
リオンにパンをちぎって食べさせ、スープを冷ましてからそっと口元に運ぶ。
笑って「おいちい!」と小さな声をあげるたび、私は自然に微笑み返していた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、夫がじっとこちらを見ている。
──驚いたような、戸惑ったような目で。
(……何なのよ?)
私は何も言わず、再びリオンにスープを飲ませた。
食後こちらをチラチラと窺いながら、夫は静かにエルマーを呼び寄せる。
「……あれは本当に、エリシアなのか?」
絞るような低い声で尋ねていた。
(……こっちまで聞こえてるわよ? 気の利かない人ね)
エルマーの方をチラリと見ると、彼はほんの少し口元を緩めている。
「はい。今はこれが日常の風景となっております。奥様は坊ちゃまのお世話を、一所懸命なさっておられますよ」
その声は静かだけど、どこか誇らしげだった。
夫はそれ以上何も答えず、席を立つとただ黙って廊下を歩き去った。
◆
リオンの頭を撫でながら静かに思う。
(この子とふたりで生きて行けたらいいけど、無理な話よね……?)
私がいた場所と余りにも違いすぎる。私はこの子の笑顔を守りたい、ただそれだけ。
それが今、私がここにいる理由だった。