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第5話 私たちのことは、どうぞご心配なく

 ある日の朝。リオンは、ベッドの中で少しだけぐずっていた。

 昨夜も、微かに咳き込んでいたせいだろう。私はそっと彼の背中を撫でながら、ベッドから起き上がらせた。


「おはよう、リオン。今日はいい天気よ?」

「……おはよ、母しゃま」


 眠たげな声が、胸にじんわりと沁みる。


 リオンを連れて食堂に向かうと、見慣れない少年がそわそわと待っていた。

 髪を後ろで束ねた、まだあどけなさの残る料理見習いだ。


「お、おはようございます、奥様! 坊ちゃまのお食事を、お持ち致しました!」


 元気な声とともに彼が運んできたのは、湯気の立つふわふわの白いパンと、やさしい香りのスープ。


「あなたがこれを作ってくれたの?」


 微笑んで尋ねると、少年は顔を真っ赤にしてうなずいた。


「坊ちゃま用に、柔らかくて食べやすいようにと思いまして……!」


 リオンは目を輝かせると、小さな手でパンを掴む。


「ぱん、ぼく食べたい……!」

「ありがとう、リオンも喜んでいるみたい」


 私は、少年の目を見ながら礼を言った。


(……この子は、味方になってくれそうに見えるけど)


 どこか不器用だけど、真っ直ぐな雰囲気が彼にはある。


 ──けれど。


 ふと、別の使用人が運んできた肉料理の匂いに、微かな違和感を覚える。

 胸の奥で小さな警鐘が鳴る。


(……少し、香草の香りが強すぎない?)


 胸の奥に、ひっかかるものがあった。だが、今はまだ確信が持てない。

 私はわざと肉料理の皿を遠ざけ、リオンの口に入らないようにする。手は自然を装ったけれど、胸の鼓動は少し早まっていた。


 朝食を終えた頃、執事のエルマーが控えめに近づいてくる。


「奥様。旦那様が本日、屋敷へ一時帰還なさいます」

「分かったわ……」 


(……ああ)


 心の中で深いため息をつく。あの人に会うのは、憂鬱以外の何ものでもない。

 別に、今さら何かを期待しているわけじゃない。私にはリオンがいればそれでいいから。


 昼過ぎ、玄関ホールに現れた夫は、戦装束のまま少し疲れた顔をしていた。

 見た目だけなら完璧な美丈夫。けれど、その瞳はどこか空虚だ。


「おかえりなさい」


 淡々と頭を下げる。抱きかかえたリオンは私にしがみつきながら、じっと彼を見た。

 夫は、僅かに眉をひそめる。その表情は困惑しているのか……。


 (なんで、そんな目で見るの? ……まあ以前は、エリシアの顔すら見ようとしなかったけどね!?)


 嫌だったけど、形式上夕食の席を彼と共にすることになった。


 リオンにパンをちぎって食べさせ、スープを冷ましてからそっと口元に運ぶ。

 笑って「おいちい!」と小さな声をあげるたび、私は自然に微笑み返していた。


 ふと、視線を感じて顔を上げると、夫がじっとこちらを見ている。


 ──驚いたような、戸惑ったような目で。


(……何なのよ?)


 私は何も言わず、再びリオンにスープを飲ませた。


 食後こちらをチラチラと窺いながら、夫は静かにエルマーを呼び寄せる。


「……あれは本当に、エリシアなのか?」


 絞るような低い声で尋ねていた。


(……こっちまで聞こえてるわよ? 気の利かない人ね)


 エルマーの方をチラリと見ると、彼はほんの少し口元を緩めている。


「はい。今はこれが日常の風景となっております。奥様は坊ちゃまのお世話を、一所懸命なさっておられますよ」


 その声は静かだけど、どこか誇らしげだった。

 夫はそれ以上何も答えず、席を立つとただ黙って廊下を歩き去った。


 ◆


 リオンの頭を撫でながら静かに思う。


 (この子とふたりで生きて行けたらいいけど、無理な話よね……?)


 私がいた場所と余りにも違いすぎる。私はこの子の笑顔を守りたい、ただそれだけ。

 それが今、私がここにいる理由だった。

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