部屋の中には、薬草の煎じた匂いがほんのりと漂っていた。
薄暗い灯りの下、リオンはうっすらと汗をかきながら眠っている。
「エリシア様。リオン坊ちゃまは先ほどよりも、また少し顔色が悪くなっていませんか……?」
マリネが眉をひそめながら、リオンの額にそっと触れる。
私は黙ったまま、薬瓶のラベルをひとつひとつ確認していた。
異常の兆しがどこにあるか、どんな痕跡があるのか、気を抜けばすぐに見落としてしまう。
「薬草の種類は間違ってないの。……けど煎じたあと、少し匂いが変わってる気がするのよね」
「まさか薬草を煎じる段階で、何かされているということですか……?」
「その可能性はあるかもね。納品された時じゃなくて、加工の途中で混ぜられたかもしれない……」
そんな私達の会話の最中。リオンが小さくうめき声をあげると、体をぎゅっと縮こまらせた。
「リオン……!?」
「母しゃま……。おなか……、いたいの……」
その声に、部屋の空気が凍りつく。私はすぐに顔を上げ、マリネに向かって指示を飛ばした。
「マリネ。水と清潔な布を持って来て! それから——」
「はいっ、すぐにお持ち致します!」
緊急事態――。ここまで手を尽くしてきたのに、敵の手がまた新たに伸ばされていた。
(迂闊だった。前の人生では、薬は信じて疑わないものだった。けれどここは違う。
毒を仕込むなんて、簡単にできる世界。わたしの、ばかばか! なんで気づかなかったのよ!)
◆
その頃荒れた街道を、数頭の馬が速度を上げ駆けていた。
「旦那! レオニスの旦那ってば! そのペースじゃ、馬がもちませんって!」
後ろから叫ぶカイルの声にも、レオニスは振り返らない。
(エリシア、リオン……。待っていてくれ、もう後悔なんてしたくない)
泥だらけのマントが風にたなびき、顔には疲労の色が濃く出ている。
けれど彼は止まらない。止まるわけにはいかなかった。
(嫌われてもいい。拒まれても冷たくされても——。それでも今すぐ会って伝えなきゃいけない。俺は……!)
屋敷の門前。突然の馬の蹄音に、門番たちは驚いて飛び起きた。
「な、なんだ!? 誰か来るぞ!?」
夜空の下を駆け抜けてきたのは、ボロボロの姿の男。泥にまみれマントもほつれているが、その顔は間違いなく――。
「だ、旦那様!?」
「旦那様のお帰りが、予定より早すぎる……!」
「門を開けろ! すぐにだ!」
荒い息を吐きながらレオニスは叫ぶ。胸が焦げつくような焦りに、喉がひりつき声がかすれていた。
◆
屋敷内でリオンの体をそっと寝かしていると、ふと外の気配が気になって眉をひそめた。
ガタンと玄関から聞こえる音と、慌ただしい足音。そして、息を切らせた声が部屋に響く。
「エリシア……! リオン……!」
そこに立っていたのは、ボロボロの姿になった――レオニス。
「……」
(なんで……なんでこんなに早く帰ってきたの? 予定はまだ先だったはず。……それに今は、それどころじゃないってば!)
「た、ただいま……! エリシア、リオン!」
レオニスは荒い息を吐きながら扉の側に立ち尽くしている。ボロボロのマント、泥にまみれた靴――。
(戦地から戻って来るのって、こんなに汚れるんだ……。っと、今はそれどころじゃない!)
「お帰りなさい! でも今、こっちは手一杯なの! エルマ、準備できた!?」
「奥様! できました!」
私が声を張ると、レオニスはハッと我に返ったように顔を上げ、肩で息をしながら部屋へ入ろうとする。
「駄目! まずはお風呂に入って、身体を綺麗にしてきて!」
「えっ! ……あ、ああ。わかった、そうする」
名残惜しそうに扉の前で立ち止まる彼。けれど私はきっぱりと言い放った。
「見るのは後よ!」
マリネが急いで水と布を持ってきてくれた。私はそれを受け取り、そっとリオンの額の汗をぬぐう。
目の前に浮かぶ数値――。体温、脈拍、呼吸が真っ赤に点滅している。
(ごめんね、ごめんね、リオン……。どうか……どうか、耐えて……!)
リオンの数値がどんどん上がっていく。
「もう何なのよ、このスキル! 全然役に立たないじゃない!
……白き手か何かしらないけど、どうせなら治療法まで表示しなさいよ!!」
目の前の数値がまたフリーズする。
(結局また、守れなかった……!)
向こうでの記憶が、フラッシュバックする。一気に流れ込む記憶に、意識を失いそうになるのを何とか堪えた。
「エリシア!!」
レオニスが駆け込んできて、私の身体を支えてくれる。
「大丈夫か!? おい、医者を呼べ!」
「お……」
「んっ? 何だエリシア」
「……お風呂、……入って」
そのまま私は、意識を手放した。