「また来た……!」
屋敷の廊下を歩く足音が、何度目かの往復を終えたところで止まった。
私は資料室の机に広げた書類から目を離し、そっと顔を上げる。
案の定、扉の向こう――。廊下に立つ背の高い影。レオニスだ。
「……何か手伝うことはないか?」
低く響く声が、半ば気まずそうに聞こえてくる。私は小さくため息をつき、書類を彼の方に見せた。
「レオニス……、何もないから。ここは私たちで進めるから、安心して」
「……そうか」
少し寂しそうに肩を落とす彼から、短い返事が返ってくる。
やっといなくなってくれると思ったが、レオニスはその場を離れようとしなかった。
扉の横でじっと立ったまま、気配だけをこちらに向けている。
資料室で一緒に調べ物をしている3人が、背後で小さな笑いを漏らした。
「……旦那様、また奥様の近くをうろついておられますね」
聞こえないふりをして、再び書類に目を落とす。しかし胸の奥では、どうにも落ち着かなかった。
「そんなに……気になるなら、手伝えばいいじゃない」
はね除けたのは自分なのに、随分都合のいい独り言が、誰に届くでもなく空中に消えた。
◆
「……レオニス、少しいい?」
資料を抱えたまま立ち上がる。廊下の彼がわずかに目を見開き、すぐに真面目な顔に戻った。
「なんだ?」
「この件なんだけど……原因の物質はわかったの。でもどこまで私が手出ししていいか、わからなくて」
資料室の隅のテーブルへ向かい、ふたりで並んで腰掛ける。マリネたちは気を利かせて、そっと席を外していた。
資料の束を広げ、指先でとんとんとページを指し示す。
「これが体内で見つかった成分と、怪しい搬入経路。でも毒や薬に詳しい人じゃないと……」
「見せてみろ」
「資料で調べたけど、詳しく載っていなかったの……。どうしてかわかる?」
隣に座ったレオニスが、資料のページを覗き込む――。思ったよりもずっと近い。
わずかに体を引いたけどその気配を察したのか、彼はぐっと身を乗り出してさらに距離を詰めてきた。
「なぜ離れる? 君が頼んだんだろう?」
「え? 距離が近かったからだけど。……もしかして、目が悪いの?」
この世界にも眼鏡ってあったっけ、なんて考えが頭をよぎる。レオニスは少し、残念そうな顔をした。
(……変な人)
彼は真剣な表情で資料に目を落とすと、指で1箇所を軽く叩く。
「これは……戦場で使われた薬に似ているな。俺の知り合いに当たってみよう」
私は、ぱっと顔を上げた。
「戦場!? 一般にも出回っているの?」
「いや、普通は軍隊で使用する物だ。それだけに流通経路が限定されるし、資料も少ない」
以前感じた恐怖を思い出して、息を呑んだ。
「もしかして、手伝ってくれるの……?」
「当然だろう。自分の子どもの命がかかっているんだ」
その声色は落ち着いているのに、手元の資料を握る指先はわずかに力がこもっている。
(この人、一体どうしちゃったの……?)
淡々と答えるその横顔を、思わずじっと見つめてしまった。
私達が調べ物に集中している間に、レオニスはすでに兵士のひとりを呼び寄せていた。
軍の貯蔵庫から、毒となる素材を持ち出された可能性が高かったためだ。
軍服を着た青年が資料室の扉を軽くノックする。
「公爵閣下、ルディ殿とカイル殿に連絡を入れました。
それと、兵士達の中でも信頼できる者を何名か、秘密裏に調査に当たらせています」
「よし、頼む」
淡々と指示を出すその横顔に、少し驚く。
さっきまでの、私のすぐそばをうろうろしていた姿とは、まるで別人のようだった。
(……さすが、軍の指揮官ね)
一方で、屋敷の中では別の動きも始まっていた。マリネが厨房から戻り、薬草の在庫と納入記録をまとめ始める。
カイは小走りで書庫から古い帳簿を抱えてきて、セスとともに記録の照合を始めた。
レオニスがいるからと、おおっぴらに屋敷内を調査できない。証拠を隠されてしまう可能性もあったから。
ただ、セスはお休みをもらっていた時、彼なりに危険な薬草の解毒方法を調べてくれていたそうだ。
前回のように、後れは取らない。
「この納品書、日付がずれてますね?」
「こっちは前と内容が微妙に違う……。細かいところまで調べないといけないな」
真面目な顔で作業を進める3人に、私は小さな笑みをこぼす。
「みんな、ありがとう。セスもわざわざ実家に帰って、専門書で調べてくれたんでしょ? 凄く役に立ってる」
「何を仰ってるんですか、当然のことをしているだけです」
セスは顔を背ける。その耳元がほんのり赤くなっているのを、私はしっかりと見逃さなかった。
(……ほんと、頼りになる。みんなが力を貸してくれてる)
軍側と屋敷側、両方の調査が同時に走り出す。私は立ち上がり、拳を握りしめ宣言した。
「これは……。もうみんなで、解決するしかないわね!」
鼻息の荒い私の横で、レオニスがふと口を開く。
「そういえばセス」
「……はい。何でしょう、旦那様」
「お前、手紙を代筆していただろう?」
「えっ? ……ああ、そうでしたねぇ」
(まずい! バレてる……!)
「あ、あれは私が彼にお願いしたのよ! リオンのお世話があったから!」
「そうなのか……?」
「貴方だって、手紙を送りすぎなのよ! 返事を書くのだって大変なんだから!」
「それは……悪かった」
(謝った――!?)
今までの彼からは想像もできない態度に、私はただ、ぽかんと彼を見つめることしかできなかった。
──そして、長い夜が始まる。