本当にまずいことになった、と祐希は震えた。目の前には顔を赤くして自分に今にでも、何をしてくるかわからないヴァンパイア。
祐希は今し方、彼女の持つ神経麻痺のような能力によって動けなくなったのだ。
「ち、ちなみに、どれくらいで動けるようになるの?」
「んー。私が飲んだ血の量によって変わるけど多分、春川くんの場合は五分くらいかなぁ」
ヴァンパイア――イリナのいかにもエクスタシーを感じていそうな表情を祐希は見つめる。この窮地からどうにか脱する方法はないのか。
「とりあえず、君は私のもの。中学まで男子校にいたって聞いてたけど、学校で習わなかったの? 『女は性欲しか頭にないんだから気をつけろ』って」
「全く同じことを他の奴にも言われたばっかだよ」
ホルの言うことはやはり正しかったらしい。もう少し時間が早ければ、大声を出して誰かの助けを待つこともできたが。祐希は歯噛みする。
「くそ、どうするつもりなんだ。俺のこと」
「そりゃあ……」
そりゃあ、そりゃあ、と言ったイリナから言葉が発せられなくなった。突然訪れた無音に祐希が戸惑う。
何を言うのかと思って身構えた祐希の目には、だんだん、蒸発しそうなほどに赤くなっていくイリナの姿が映っていた。
「どうしよ……何やったらいいのか……わからない……」
「は?」
「いや、だって、同級生の男の子ってだけでも現実で話したの初めてだし! その、なんていうか、エロいこと? するって言っても? 私はどっちかと言えばリードされたいって言うかさ、いや、こんなこと言うのもアレなんだけどぉ」
「は?」
「とにかく、君が教室に残ってたから!あと先考えず勢いでやっちゃったの! まさか引っかかるなんて思ってなくてぇ! っていうかその上裸同然みたいな格好で床に転がってる画がもうエロすぎるの!」
「あ、なんか動けるようになってきた」
痺れというか、麻痺が切れてくる。祐希は服を整えながらすくりと立ち上がる。何かをごちゃごちゃと騒いでいるイリナのことをガン無視して部屋から出ようとする。
「あっ、ちょっと待って、逃げないで、お願い、ねぇ!!」
「土下座までして頼んできたから応じたけど、次からは他の証人がいる所で吸わせるから。こういうのは二度と御免だし」
イリナ自体が極悪人でないこと自体は祐希も勘づいていた。なんというか、後先考えずについやっちゃうタイプなのだ。
それはそれで問題だとも思うが、今回は見逃すことにした。
それに祐希からしても男という性別の希少性を十分に理解した一件となった。
「あー、まじで気をつけよ」
その呟きが夜の学校に消えていく。
しかし、転がって抵抗できない祐希からまた血を吸えば、また硬直時間が延期されるのではないか?
そう思ったが、どうもそれに考えが思い至らなかったイリナは中々なポンコツだな、と祐希は考えたのだった。
〜〜〜
その次の日。皆にとっていつもの日常が流れる。本当に、何もない日のはずだ。
皆の注目が集まったのは昼休みになった途端だった。クラス唯一の男子の祐希が何食わぬ顔でイリナに近づいていったのだ。
「ねえ、早く行こうよ」
「えっ!?」
イリナも祐希に声をかけられて初めて思い出したのだ。血を吸わせてくれるなら次の日の食堂を奢る、そう約束をしていたことを。
「男の子が委員長に声かけてんだけど!!」
「はぁぁー!? いつの間にお近づきになったの?」
「ってか単純に羨ましすぎる」
周りからの声も祐希にはうっすらと聞こえてくる。祐希はそういう声はもう聞かないことにしたのだ。ただ、自身がちやほやされる対象にあること自体は悪い気はしない。悪い気はしないだけだ。
「本当に……いいの?」
「いや、約束したじゃんか。金渋ってんの?」
「そういうことじゃなくて」
イリナは昨日の騒動を経ていつ、あのことが先生に報告されるのか、そんなことばかり考えていた。今し方祐希が近づいてきた時も何か、皆の前で絶望的な言葉を投げかけられるのだと思っていたのだ。
「私……酷いことした」
「まあそうだけど正直、これでへこんでたらこの世界では生きていけないだろって思ったし」
イリナの言う事とはやや角度が違う返答な気もしていたが、祐希は本心から気にしてなかった。
「引っかかった」と思った時には怖くもあったがよく考えたらイリナのような可愛いヴァンパイアに自分を求められる事自体に悪い気がしていなかった。
ただ、この世界の常識的に言えばイリナは糾弾されるべきことをしている。そこは履き違えてはいけないので祐希は釘を刺しておく。
「まあ、次同じことしたら許さないけど」
「ひっ! ごめんなさい! もう周りの視線が痛いのでさっさと食堂行きましょう!」
明らかにイリナの額に冷や汗が浮かび上がっていることがわかる。
「ちなみに……次はいつ吸わせてもらえますか」
「イリナって神経が図太いね」
これ以上注目を浴びたくないと言って食堂に行ったものの、食堂に行ったら「男の子がいるし、なんなら一緒にご飯を食べてる女がいる」ということで、さらにたくさんの人から注目を集めることになったのだ。
「……あれってイリナさんだよね? なんで突然祐希とご飯食べてんの、え、いつ仲良くなったの?」
それをたまたま食堂に来ていた奏音に発見される。友達同士なら一緒にご飯を食べるくらいは日常茶飯事ではあるし、イリナも仲良くなっただけかもしれない。
「あれ? もしかして早く祐希との距離縮めないと……やばい?」
誰にも知られず一人、奏音は焦りを募らせる。