『私を……解放してください』
マリアンヌは、悲痛な声でモーズ侯爵に言った。
その言葉の意味を、モーズ侯爵は理解できない。
「何を言っているのだ、マリアンヌ。私は――」
『お願いです、お父様――このままでは、私はどうかなってしまいそうです』
「どうかなるとは、どういうことだ、マリアンヌ」
モーズ侯爵は理解していなかった。
魂が天に導かれることなく、この世に縛り付けられるというのがどういうことなのかを。
「マリアンヌさんは苦しんでいます。この世に未練のない人間の魂は本来ならば天に導かれる。それを無理やり鎖で縛りつけ、この世に留まらせているのです。私たち生きている人間には感じることのできない程の苦しみが彼女を襲っているはずです」
「違う! そんなはずはない! マリアンヌは生き返るのだ!」
「死んだ人間は生き返りません。仮に生き返ったとしても、彼女の身体は既に朽ちています。そのような骸骨の姿で生き返って、本当に彼女が幸せになれると思いますか?」
「……お父様。私もルシアナ様の仰る通りだと思います。マリアンヌ姉さまを自由にしてあげてください」
ルシアナが立ち上がり、ベッドの脇に跪いてマリアンヌの霊体に寄り添うモーズ侯爵の肩に手を添える。
『お父様――私はお母様の待っている場所で、お父様が役目を終えていらっしゃるのを待つつもりです』
マリアンヌが上半身を起こし、モーズ侯爵に抱き着く。
その身体は決してモーズ侯爵に触れることはできないのだが、それでも、本当に抱き合っているようにルシアナには見えた。
「……ぐっ……わか……った」
ルシアナは自分と一緒だと思った。
モーズ侯爵の悪事を暴くとき、アネッタの身を案じ、どうすればいいかルシアナは悩んでいた。その時、バルシファルが、まずはアネッタの気持ちを聞くようにアドバイスをくれたため、彼女は悩みを乗り越えて、彼女の意見に従いここまで来た。
モーズ侯爵も、マリアンヌの話を聞き、彼女の本当の気持ちを知れば、今回のような騒動にはならなかった。
「ルシアナ嬢、身勝手な願いなのはわかっている。どうか、マリアンヌの魂を――」
「はい、わかっています」
ルシアナが魔法を唱えると、マリアナに何重にも絡みついた鎖が目に見えるようになる。
とても酷い呪術――決して逃さないという執念のようなものが込められている。
そこに、慈悲の心は何もない。
感じるのは憎しみ。
一体、この呪術を施した人間は、何を思ってこんな鎖を生み出したのか。
「……酷い」
「まさか、こんなことになっていたなんて……私はなんてことを――」
アネッタが目を覆い、モーズ侯爵は自分がしてきたことへの罪を悔いた。
これだけ絡まった鎖、普通に外すのは不可能だ。
絡まっている部分に魔力を流す。
すると、聖属性の魔力に反応し、鎖の一部が砂へと変わっていく。
「ルシアナ様、お顔が――」
「大丈夫です、このくらい」
フルヒールを使ったせいで魔力が残り少ない。
一カ所鎖を崩しても、まだまだ絡まっているため、解けない。
「もう一度……」
ルシアナは正真正銘最後の魔力を使った。
ホーリーライトを維持する力も無くなり、室内はモーズ侯爵が持っているランプの光だけになった。
「お父様、部屋の灯りを――これだけ暗ければ、ルシアナ様が鎖を解けません」
「あぁ……わかった」
モーズ侯爵が部屋の灯りをつける。
その間もルシアナは鎖を解き続けた。
そして、その作業は一時間にも及んだ。
「これで終わりです」
最後の鎖を解き終えた。
マリアンヌの身体が徐々に宙へと浮かぶ。
『ありがとうございます。これで天に旅立つことができます。お父様、短い間でしたが、こうして最後にお別れが言えて、マリアンヌは嬉しかったです。アネッタ――あなたのことはお父様から聞いています。とても優秀な妹だと。お父様は私が生き返ったら可愛がってほしいと仰っていましたが、その願いを叶えられないダメな姉でごめんなさい』
「そんな……マリアンヌ姉さま――」
『最後にルシアナ様。私を助けてくれてありがとう。どうか、お父様とアネッタのことをよろしく――うっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁあっ!』
マリアンヌがルシアナに話しかけている途中、彼女は顔をゆがめ、突如苦しみ始めた。
「どうした! 何がどうなっているっ!?」
「まさか、これは悪霊化っ!? 霊はこの世に長くとどまると悪霊になると言われている。それが起きた!?」
「何故、このタイミングで」
「たぶん、鎖で縛り付けていて、悪霊化も無理やり抑え込んでいた。それが解かれたから――」
それはルシアナにとって計算外の出来事だった。
この世に未練のない霊なら、迷わずに成仏できるはずなのに、鎖に縛られたせいで悪霊になってしまうなんて。
「このままでは、マリアンヌ様の魂が闇に飲み込まれてしまう。急いで天に導く手助けを――」
と手に魔力を集めようとするが――
「魔力が……もう無い。全部魔力を使い果たして……」
こんな時に――一体どうすれば。
「ルシアナ様! 私にマリアンヌ姉さまを救わせてください! 私も聖属性の魔力の持ち主なのですよね?
」
「アネッタ……例え聖属性を持っていてもいきなり魔法を使うことは……いえ、できるかもしれません」
ルシアナは思い出した。
アネッタが聖属性の魔力を持っているかどうか確認するとき、アネッタの中にルシアナの魔力を流し込んだことを。
いまなら、まだ、アネッタの中にその魔力が残っている可能性がある。
「アネッタ、手を握って」
「はい!」
「先ほど、アネッタの部屋で渡した私の魔力――そこに、術式を組み込みます」
ルシアナはそう言うと、アネッタの中にある自分の魔力に、霊を天へと導く魔法の術式を編み込んでいく。元々自分の魔力とはいえ、現在は他人の体にある。そう簡単に進まない。
「感じます……何か、力のようなものが私の中に流れているのを……気分が……悪い……」
「元々私の魔力ですからね。その魔力を活性化したことで、体が異物と捉えているの。耐えて下さい」
「はい……大丈夫です」
アネッタが耐える一方、マリアンヌも耐えていた。
自分の身が悪霊に落ちないように。
苦しみに耐えながら必死に耐えていた。
「モーズ侯爵! マリアンヌさんに声をかけてください! 彼女を闇に落としてはいけません。天に昇れなくなります」
「わかった! マリアンヌ! 大丈夫だ、絶対に耐えろ」
『あぁぁぁぁ……うっ……お……と……あぁぁぁぁ』
苦しむマリアンヌの声が、ルシアナを焦らせる。
もう少し、もう少しで完成する。
「ルシアナ様――」
アネッタが反対の手でルシアナの頬を触る。
「ルシアナ様なら大丈夫です。焦らないでください」
「ええ、わかりました」
アネッタもマリアンヌも耐えている。
二人が時間を稼いでくれている。
戦っているのは一人ではない。
ルシアナの焦りが消えたわけではない。
だが、一緒に戦っているという連帯感が、彼女に力を与えた。
そして――
「アネッタ、術式を組み込み終わった。マリアンヌ様に手を伸ばし、祈って!」
「はいっ!」
アネッタは両手で、先ほどルシアナにしたようにマリアンヌの頬に手を添える。
「マリアンヌお姉さま、どうか、お休みください。お母様があなたを待っています」
『……アネッタ……ありがとう……ふふっ、あなたは、お父様が言っていたよりずっといい妹ね。お父様のことをよろしく――』
マリアンヌが最後の言葉を言い終わる前に彼女の身体が光に飲み込まれて消えた。
天へと導かれたのだ。
最後に彼女が見せた表情は、とても幸せそうに見えた。