マリアからルシアナが攫われたと聞いたシャルドは、一通り事情を聞き終えると、愛馬に乗り、砦を飛び出そうとした。
幼いカールには大きすぎるが、一年前から乗り、慣れ親しんだ馬だ。乗馬の訓練も受けている。
いざという時のために、連れてきていた。
それをレジーに止められた。
「殿下、お待ちください! 事情は聞きました。ヴォーカス公爵令嬢の捜索なら、早速我々が連れて来た護衛たちを編成し、派遣致します」
「その準備にどれだけ時間がかかる?」
「半刻もいただければ――」
それでは遅いとシャルドは思った。
ルシアナを攫った男は、馬車とも呼べない、荷車を馬に曳かせている状態で移動していると聞く。
荷をほとんど積んでいないその馬の速度は、早馬の約半分。
準備に一時間も時間を使えば、馬車に追いつくのに二時間、必要になる。
二時間あれば、いったいどこまで逃げられるか。
「なら、俺が一人で先に行く」
「殿下が一人で行くなど許されるはずがありません。いくら婚約者を助けるためとはいえ、何かあれば――」
「すまん、レジー。俺は今は殿下ではない」
シャルドは、いや、
「ただの騎士訓練生、カールだ」
カールはそう言って馬から降りずに駆け出した。
そして、カールは北に向かって走った。
冷静になったら、いくら剣の訓練を受けたとはいえカール一人で解決できる問題ではないことに気付いただろう。
そして、意外なことに、カールは最初から冷静だった。
変装しているとはいえ、一国の王太子が一人で馬に乗ってルシアナの捜索に向かったとなれば、護衛としてついてきた彼らは何を置いてもカールを追いかけるに決まっている。
編成等と悠長なことを言っている暇はない。
一時間と言わず、五分もあれば準備できた者からシャルドを追いかけ、二十分もあれば全員が捜索に乗り出すだろう。
レジーには絶対に後で怒られることも理解していた。
カールは頭の中で西の砦付近の地図を思い浮かべた。
ルシアナを攫ったと思われる人間は、北に去ったと聞いている。
街道沿いに進めば、道は二股に別れ、北東はガラフ伯爵領に進み、北西はファンバルド王国への国境になる。
(賊がルシアナのことを公爵令嬢とわかっていて誘拐したとするのなら、その狙いはなんだ?)
公爵令嬢の誘拐となれば、既に情報が各検問所に伝わっているだろう。
そんな状態で、伯爵領に抜けたり、ましてや国境を越えたりはできないだろうとカールは思った。
(となると、ほとぼりが冷めるまでどこかで身を隠す必要があるのではないか?)
だとすると、街道沿いに逃げているとは思えない。
街道を避け、例えば人目の行き届かない場所に隠れ家を用意してあり、そこにいる可能性も考えられる。
だとすると、怪しいのは、川の北にあるという森ではないか?
カールはそう推測した。
実際のところ、冒険者ギルドは未だにルシアナのことを、回復魔法の得意な修道女としか見ておらず、街の中の門や衛兵には話が伝わっているが、検問所まで手が回っていないのが現状だった。
そのため、冒険者ギルドから派遣された者たちは真っすぐ街道沿いを進む
カールは誤った推測から正解を導き出したのだ。
街道を逸れることにした。
カールは馬から降り、街道の脇にマーキングサインを施す。
騎士の訓練で学んだ、騎士が緊急時に予定外のところに移動することを後続の仲間に知らせるためのサインである。
レジーならば、これでカールが進んだ方向に気付くだろう。
そして、サインを残したカールは再び馬に乗り、森へと目指す。
中々手がかりが見つからなかったが、暫く進むと、車輪の跡と馬の足跡を見つけた。蹄の形を見ると、馬車は森の方に向かって続いているのは間違いない。
森で伐採した木を運ぶ荷車ということも考えられたが、車輪の跡は一つしかないというのはおかしいし、休戦中の今なら、西の大森林の方が近いし、建築資材向けの木も多い。
あと、考えられるのは冒険者が大型の魔物や魔獣を載せるためだ。
仮に今回の事件に関係のない冒険者だとしても、何か目撃をしているかもしれないと、カールは車輪の跡を辿ることにした。
そして、彼はとうとう、馬車を見つけた。
馬車の中には、毛布が何枚も敷かれていた。
森の中に巧妙に隠されていたが、生きている馬を隠すのは難しい。
(……この馬は……いや、考えるのは後だな)
ここから先、馬で移動するのは難しい。
カールは馬から降りて目立つ場所に結ぶ。
先ほど残したマーキングサインと合わせれば、レジーもカールの意図に気付くだろう。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
森の民と鬼との戦いは続いていた。
矢は既に尽き、何本かが鬼の身体に刺さっている。射かけたうちの一本は鬼の目に命中した。鬼は目に刺さった矢を抜き、大きく暴れはじめた。
鬼は既に不死生物――ゾンビと同じような状況になっているため、痛みはない。そもそも、骸骨の不死生物のように目の無い状態でも周囲を観察できるように、鬼も本来であれば目で周囲を見る必要がない。
ただ、生物としての記憶が、目を攻撃されたという事実が、鬼に対して怒りという感情をもたらしている。
まるで本当は死んでいないのではないかというその動き。
だからこそ、彼らは不死の生物と呼ばれている。
森の民はその不死生物となった鬼に苦戦していた。
槍での攻撃は確実に鬼にダメージを与えているが、思っていた以上に鬼の皮膚が分厚い。
ルシアナの破邪魔法が付与された武器は鬼にダメージを与えるが、それが体の奥――悪霊が取り憑き、死体を動かしているであろう部分まで届かないのだ。
皮膚を傷つけても痛みも与えられなければ血も流れない鬼にとって、それはもはや傷ついていないのと変わりない。
その時だ。
建物の屋根に登っていたキールが、そこから鬼の背中に向かって跳び、剣を突き刺した。
剣が深く突き刺さり、「やったか」とキールがほくそ笑んだときだった。
「キールさん、逃げてっ!」
ルシアナが叫んだのと、鬼が背中に手を伸ばし、キールの身体を掴むのは同時のことだった。
この鬼の身体は、無数の悪霊が体中に張り巡らされている状態である。
一カ所突き刺せば、その周囲の悪霊を払い、弱らせることはできるが、そこ以外の悪霊にダメージを与えることはない。
鬼は手を強く握ると、キールの身体は圧迫され、痛みにより声を上げた。
鬼はそのままキールを握りつぶそうとしたが――
「わふぅぅぅぅぅぅんっ!」
神獣が衝撃波を放つことで、鬼の身体が圧され、その力に手に握っていたキールが地面に落とされた。
落ちたキールをラントが槍を捨てて受け止め、そして離れた場所に避難する。
そして鬼は、再度ルシアナを見た。
ルシアナがまた邪魔をしたと思ったのだろう。
森の民が前を塞ぎ、その進行を防ごうとした――その時だった。
鬼が大きく跳躍し、森の民を乗り越えるとルシアナの方へと向かって走ってきた。
恐怖で身が竦む。
迫ってくる鬼を見て、ルシアナは死を覚悟し、動けなくなった。
その時、神獣はルシアナの服を噛むと、身を屈めた。
ルシアナは我に戻り、神獣に乗ると、神獣は斜め後ろに逃げた。
最初はその速度に、これなら逃げられると確信したが、直ぐに神獣の速度が落ちる。
先ほどから、森の民が殺されそうになるたびに衝撃波を放っていたため、力のほとんどを使い果たしてしまったのだろう。
このままでは追いつかれる。
「アンデッドブレイク」
ルシアナが後ろに向かって破邪魔法を放つ。
鬼の顔に命中し、一部の悪霊が体から離れていくが、全体の量を見ると極僅かな量だ。
本来は鬼が動けなくなったところで、もっと強力な破邪魔法を使う予定だったが、魔力が完全に回復しきっていないルシアナにとって、一回きりのチャンス。
それになにより、魔力を練るのに時間がかかる。
今からでは間に合わない。
ルシアナに攻撃された鬼はさらに怒り、逃げる彼女に迫ってきた。
そして、鬼の手が延びてくる。
「助けて――誰か――」
彼女が願ったその時、ルシアナを掴もうとしたその腕が斬り落とされた。
「え?」
突然のことに、ルシアナは何が起こったのかわからなかった。
だが、その声が――その声を放った彼が、ルシアナに希望を与えた。
「君はいつも危ない目に遭っているね、シア」
そう言って鬼の腕を切り落とした剣士を見て、ルシアナは彼の名を叫んだ。
「ファル様っ!」