ファインロード修道院。
トラリア王国の辺境の地にあるその修道院に、元公爵令嬢、ルシアナ・マクラス――いや、今は家を追い出されたため、ただのルシアナがいた。
彼女の腕の中には、いま、ライ麦から作られた焼きたてホカホカの黒パンが山盛りに入った籠が入っている。
ルシアナの喉がごくりと音を立てた。
もし、ルシアナの両手が塞がっていなかったら、彼女の理性を無視して腕が勝手に黒パンに伸びていたことだろう。
だが、一つ手段を塞がれたことで、空腹からくる生存本能がルシアナの頭をも浸食し始めた。
(いえ、手が塞がっていても直接口で――)
とルシアナが元貴族令嬢にあるまじきことを考えていると、隣にいる先輩修道女が笑顔で首を横に振る。
ルシアナは理性を呼び起こされ、「はい」と頷いて涙目でパンを運んだ。
パンを運ぶ先は、修道院に併設されている孤児院だった。
孤児院には、十五歳未満の子供が七十六人いる。
修道女の数が、修道長を含めて八人しかいない上、本来は五十人を孤児の上限として建てられているため、明らかに定員超過であった。
夕餉の時間三分前だというのに、まだ座って食事をできない子供以外は全員席に着き、ルシアナたちを迎え入れる。
ルシアナはその子供たちの前に置かれたお皿に、パンを一つ、また一つと置いていく。
そして、配り終えたときには、籠の中いっぱいにあった黒パンは一個も残っていなかった。わかっていたことだが、この虚無感は辛い。
公爵家にいたころは、白パンを食べるのは当たり前。黒パンは貧民が食べるもの。白パンが無ければケーキを食べればいいではなく、白パンを切らした料理人を切ればいい――という考え方を地で行っていたルシアナにとって、黒パンがここまで恋しくなる日が来るとは思ってもいなかった。
でも、そのお陰で、いまは食べることの大切さを理解できたので、結果的によかったと思っている。
――ぐぅぅぅぅ。
お腹の音が鳴った。
「ルシアナ、腹減ってるのかよ」
子供の一人が笑ってルシアナを指差し、それを聞いた他の子供も笑い出した。
ルシアナの周りには他にも修道女がいるのに、彼女を名指しである。
実際に、腹が鳴ったのはルシアナだったが。
「ルチアナ、はんぶんたべる?」
まだ言葉もおぼつかない子供が、ルシアナに尋ねた。
「ううん、大丈夫。私の分はちゃんとあるからね」
ルシアナは笑顔で嘘を吐いた。
さすがに、小さな子供の食事を取り上げるつもりはルシアナにもない。さっきルシアナを指差して笑った子供のパンだったら、半分と言わず、全部奪ってもよかったのだが。
子供たちの食事を終えたら、今度は修道女たちの食事である。
といっても、ファインロード修道院は基本貧乏。そして、食事は孤児院の子供のものを優先しているため、まともな食事が出ることはほとんどない。
そして、今日の修道女用の食事当番はルシアナであった。
「ルシアナ、今日の夕餉は何にするの?」
先輩修道女が尋ねた。
「そうですね、ドクキノコは昨日全部食べてしまいましたし、野草屑の塩スープにしましょうか」
「また野草屑かぁ……」
野草屑――ルシアナや孤児院の子供たちは、天気のいい日は森に食べられる野草を摘みにいくことがある。そして、食べられる野草にも美味しいところと不味いところがあり、その不味いところを野草屑と呼んでいる。
基本、美味しいところは子供のスープに入れるので、修道女が食べる野草は野草屑となる。
「それと、じゃん! 今日は近所のおばちゃんがこれをくれたんです。食後のおやつに食べましょう!」
そう言って、ルシアナはワインに漬けられた果物の瓶を取りだす。
基本、信者が持ってくる食べ物は、一度神にささげた後、神からの恵みということで子供たちの食事になる。
だが、ワインのようなお酒や、お酒に漬けられた果物は子供が食べるにはまだ早いということで、修道女のおやつとなる。
修道院の事情をよく知っている人が、回復魔法の治療費として、金銭の他にこうして修道女が食べることができて喜ぶ物をくれることがある。
「偉いわ、ルシアナ! 我儘だったあなたをここまで面倒見てきた甲斐があったってものね!」
「我儘だったのは事実ですけれど、先輩に面倒見て貰った記憶があまりありません」
「なんですってっ!? そんなことを言う悪い後輩には果物抜きね!」
「あぁっ! それ、私が貰って来たものです!」
先輩がさっと奪い取った瓶を、ルシアナは笑って追いかけた。
そして、思い出すのは三年前のあの日。
シャルドに婚約破棄され、公爵家からも追い出され、ファインロード修道院にやってきたときのことだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「シャルド殿下が、お前との婚約を破棄するそうだ」
ルシアナの兄が放ったその一言が、ルシアナの人生を大きく狂わせた。
「国王陛下の承認もある。既に、婚約破棄による慰謝料も公爵家に届けられている」
「そんな、何かの間違いです!」
ルシアナはそう言い切った。だが、彼女の兄は首を横に振る。
「一体何故そのようなことになったか――と疑問には思わないな。先ほど、侍従長からお前の普段の行いについて聞いた。シャルド殿下の婚約者であることを笠に着ては、社交界の場で他の令嬢を敵に回し、侍従たちには暴言をまき散らし、本来であれば公爵邸の管理やここで働く者のために使われるはずの給金を私的に流用。一体、お前が着ている装飾品やドレスはどうやって買ったのだ?」
「将来、王妃になる私が着飾るのは当然の義務です。妻となる私がみすぼらしい恰好をしていたら、シャルド殿下まで笑われてしまいます」
ルシアナが冗談ではなく真面目にそう言うと、「はぁ……別邸の管理を怠った僕の責任か」とルシアナの兄はため息を吐き、そして言い放つ。
「お前が王妃になることはない。言っているだろ、お前は婚約破棄されたのだ! 目を覚ませ!」
「目を覚ますのはお兄様の方です! そのような手紙、偽物に決まっています!」
王家の印の入った手紙を偽物だと断言するルシアナを見て、彼はもうダメだと思った。
このままルシアナがここにいたら、彼女は何も反省しない。さらに取り返しのつかないことが起きるかもしれない。
だから、彼は自分が取りうる選択肢の中で、最も重い決断を下す。
「ルシアナ――お前は今日から、マクラスの姓を名乗ることを禁止する」
「どういう意味で仰っているのかわかりません」
「お前には、修道院に入ってもらう。そこで己の行いを悔いるのだ」
「お兄様でも言っていい冗談と悪い冗談があります! シャルド殿下の婚約者である私を修道院送りだなんて、そんなことお兄様にできるはずが――」
「お前ら、彼女はもう公爵令嬢ではない。馬車に載せて、そいつを修道院に送り届けろ。それが亡き父に代わり兄として掛けられるお前への最大の情けだ」
彼はそう部下に命令を出すと、ルシアナに背を向けた。
それが、ルシアナが見た兄の最後の姿だった。