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第72話

 温泉旅行に行くと決めたルシアナだったが、大きな懸念材料があった。

 ルシアナの人生経験は、同年代の女性と比べれば豊富と言ってもいい。

 公爵令嬢としての優雅な生活、そして修道女としての清貧生活という両極端な人生を歩んできた。

 だが、その人生においても、温泉旅行は初めての経験だった。

 前世で公爵令嬢であった間は、いつシャルド殿下から(掛かるはずもない)お声が掛かってもいいように、極力王都から出ないようにしていた。

 そして、修道院に入ってからは、当然、温泉旅行になんて出掛ける暇もお金もあるはずがない。


「マリア、温泉とはどのようなものなのでしょうか? もしかして、ファル様と一緒に温泉に入ったり――」

「お嬢様。公共の浴場において、男女が同じ湯に入る事は王国の法により禁止されています」


 性の秩序を守るため、混浴は認められていないとマリアは語った。


「そうなのですか?」

「お嬢様、公共浴場――風呂屋に行ったことはないのですか?」

「ええ。屋敷にもお風呂はございますし、必要と思ったことがありません。マリアはあるのですか?」

「屋敷の浴場はお嬢様と旦那様以外使うことはできませんから、どうしても入りたいときは他の侍従と一緒に――」


 小さな城塞都市や農村だと、お風呂に入るというのはとても大変な作業のため、ほとんどはお風呂に入るというより、木桶を使って体を洗ったり、蒸し風呂に入ったりするのが一般的だったが、

 だが、ここは王都。

 人口十万人(六年前に比べ一万五千人増えた)が暮らす大都市である。

 風呂は民にとって最大の娯楽の一つであり、多くの風呂屋が建ち並んでいるそうだ。

 ちなみに、ファインロード修道院では、修道女が身体を洗うのは井戸の水である。孤児院の子供には薪で沸かしたお湯を使って身体を拭いていたが、修道女は薪が勿体ないという理由で、基本は冷水。

 夏はそれでも気持ちよくていいのだが、冬は地獄だったと覚えている。


「お嬢様、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

「えぇ、少し嫌なことを思い出しまして――でも、風呂屋ですか……ちょっと行ってみたいですね。貴族街にはないのかしら?」

「貴族は他人に素肌を見せるのはよくないという習慣もございますし、自宅に風呂がありますから」

「そう、残念……マリアと一緒に行ってみたかったのですが……温泉まではお預けですね」


 屋敷を抜け出すときは、誰かが用事で訪れたときのため、マリアが常に部屋の中で待機している必要がある。

 貴族街に風呂屋があれば、一緒に出掛けることもできるだろうけれど、流石に貴族街の外に勝手に出かけることはできない。

 ルシアナが変装してシアとして出かけていることが、他の侍従たちに知られてしまえば、シアの善行が全てルシアナの善行に繋がってしまい、悪役令嬢からの婚約破棄計画が台無しになるからだ。 


「一緒に行ってみますか?」

「え?」

「普段、お嬢様が寝ている時間でしたら抜け出してもバレることはないでしょうし、早朝のお風呂は気持ちいいですよ? 朝の六時ごろになりますが」


 確かに、ルシアナを起こすためにマリアが部屋を訪れるのは朝の八時頃。

 それまで、用事がある日以外、他の者が部屋に訪れたことなど一度もない。

 上流階級の人が住む地区までなら、公爵邸から歩いて十分程。

 確かに、朝早くにこっそり抜け出したら問題なくお風呂に入ることができる。


「行きます! 風呂屋! あ、でも、修道女のシアとして行くなら、上流階級の風呂屋より、もう少し庶民的な風呂屋の方が自然では――」

「ダメです」

「え? なんで?」

「絶対にダメです。私と一緒に行く場所以外に行かないでください」


 マリアの言葉に、ルシアナは一歩下がってしまう。

 というのも、庶民的な風呂屋の多くは、娼館を併設している場所が多い。

 上流階級の風呂屋にもそういう風呂屋もあり、マリアが私服を着てそちらの風呂屋に行ったとき、娼婦に間違えられて声を掛けられたことがあった。

 ルシアナの安全を考えると、そういう場所には連れていけない。


「マリアがそう言うなら……」


 それでも、初めての風呂屋。

 非常に楽しみだった。




 翌朝、ルシアナは朝の五時に目を覚ました。

 風呂屋に行くのが楽しみで――というわけでなく、彼女はいつもこの時間に起きる。修道女時代の習慣は生まれ変わっても抜けなかったからだ。

 とはいえ、朝のお務めがあるわけではない。部屋の掃除をしようにも、掃除の道具は部屋の中にないし、マリアや他の使用人がすべてやってくれる。

 引き出しの中から木彫りの女神像を取りだし、神に祈りを捧げるのが日常になっていた。

 いつも、最初の一時間は、贖罪にあてる。前世でルシアナが行って来た様々な悪行を一つ一つ思い出すだけでも、何日、いや、何カ月あっても時間が足りない。たとえ、この世界では起こらなかった出来事であっても、それで彼女の罪がすべて帳消しになるわけではない。むしろ、前世で本人に直接謝罪する機会を永遠に失われてしまった分、神に祈り、己の罪を顧みる。

 そして、次にこの世界にルシアナを連れてきたことに感謝をする。

 やり直す機会を与えてくれたことへの感謝、今日を生きられる感謝、バルシファルと会わせてくれたことへの感謝、マリアの命を救ってくれたことへの感謝、森の民を救ってくれたことへの感謝、王都の食糧不足が解消されたことへの感謝、美味しいスコーンが食べられる感謝、日々の小さな喜びへの感謝とともに、祈りを捧げる。

 魔力が漏れて、少し光の球が浮かび上がっていく。

 部屋の外に漏れたら大変なので、少し魔力を抑え、祈りを捧げる。


 ルシアナがこうして毎朝祈りを捧げていることは、いつも一緒にいるマリアも知らない。

 この時間はルシアナにとって、何にも代えることのできない大切な時間だった。


 一時間程神に祈りを捧げたところで、マリアが部屋を訪れた。

 他の人に気付かれないように、ノックせずに部屋に入ってくる。


「お嬢様、もう起きていらっしゃったのですか?」

「ええ、少し興奮してしまって。マリアは準備できていますか?」

「はい」

「では、参りましょう」


 ルシアナは本棚を押し、秘密の抜け穴からこっそり屋敷の外へと出かけるのだった。

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