王都には貴族街の他には、元々上流階級、中流階級、下流階級の住み分けは存在しなかった。
しかし、貴族街の周辺に並ぶ高級住宅街に住む人が自分のことを上流階級と名乗っているので、いつの間にかその辺りが上流階級地区と呼ばれるようになっていた。
普段、ルシアナは上流階級地区は通り過ぎるだけで、こうしてゆっくり歩くのは初めてのことである。
「上流階級地区も貴族街とそんなに変わりませんね」
ルシアナは周囲を見回しながら呟くように言った。
ルークと一緒に中流階級地区や下流階級地区にポーションを持って行ったり、買い物に行ったりしたりしているが、そことは全然違う。
建物の大きさは下級貴族の屋敷より大きな住居もあり、まだ貴族街の中にいるのではないかと思う程であった。
違いとして、商店がいくつか並んでいる点がある。
貴族街には商店は存在しない。
貴族が何かを買う場合は、侍従に買いに行かせるか、もしくは商人を自宅に呼び寄せるのが普通であるし、貴族街にはそもそも貴族とその侍従しか住むことが許されず、貴族は商売をしないと言われているから当たり前なのだ。
だが、まさかこんなに朝早くから店が開いているとは思いもしなかった。
むしろ、他の人が寝ているような時間に商売をできるから、上流階級地区に店を構えることができるのかもしれないとルシアナは考える。
「あ、書店があります!」
店の前に屈強な警備員らしき男が立っている書店を見つけた。
最近になって、植物から紙を作る技術が浸透してきて紙の値段も下がったが、それでも書物は非常に貴重な物。
ルシアナはよく物語を取り寄せて読んでいることもあるが、実際に本が売られている現場を見るのは初めてである。
「マリア、少し本屋に――」
「時間がありません。本屋に行きたいのであれば、目的の店は別の日になさいますか?」
「……いえ、生きましょう」
目的を忘れるところだった。
ルシアナは目的の風呂屋にたどり着く。
何人かの女性が中に入っていくのが見えたが、男性は誰も入っていかない。
マリアの言う通り、女性が入る時間のようだ。
中に入ると、散髪屋が暇そうに欠伸をしているのが目に入った。
この風呂屋では、散髪屋の他に、飲食店、診療所等も併設されている。ここまで揃っていると、風呂屋だけで一日過ごせそうな気がするとルシアナが思ったその時だった。
「それで、昨日の夜食なんですけど、なんと、海の魚が入ってきたんですよ! 滅多に食べられないのに」
「お嬢様が召し上がらなかったからね。捨てるのももったいないし、残飯処理じゃないの?」
「残飯でも海の魚なら満足です。お風呂に入ったらお腹が空きましたし、一緒にご飯食べていきません?」
聞いた覚えのある声が聞こえてきた。
ヴォーカス公爵家で働く侍従の二人だった。
「マ、マリア」
いくら修道服を着て髪の色を変えているといっても、知り合いに見られるのはマズイ。
このままでは正体がバレてしまう。
「大丈夫です。二人はちょうど風呂から出てきたところみたいですから、私が話をしている間に、お嬢様は回り込んでお風呂に入ってください。お風呂の入浴マナーは昨日教えた通りですから」
「わかったわ。あとで合流しましょ」
ルシアナはそう言うと、そっと侍従たちが出てきた方とは別の方向に行く。
「先輩、いらっしゃってたんですか」
「マリアも来てたの? ねぇ、一緒にご飯いかない?」
「いいですね。まだお風呂に入る前ですが、せっかくですし先に食事にすることにします」
「二人とも、本当にここで食べていくの? なら、私も付き合うか」
マリアがうまく二人を飲食店の方に誘導している間に、ルシアナは目的の風呂屋に――
「こんなところにいたのか。そこはお客様用の入り口だから、あんたはこっちだよ」
入る前に、店の従業員らしき恰幅のいい女性に肩を掴まれ――
「え? えぇ!?」
ルシアナが混乱している間に店の裏口に連れていかれた。
何がなんだかわからないルシアナに、恰幅のいい女性は――
「元修道女だって聞いていたけれど、修道服姿で来るなんてね。まぁ、わかりやすかったから助かるよ。それで、マッサージ経験は?」
「え? えっと、(前世では)回復魔法を使った整体マッサージなら何度か」
「へぇ、おもしろいね。じゃあ、早速だけど、これに着替えて、そこで寝ている客の相手を頼めるかい? 新人だって説明してるし、気の良い婆様だからよほどのことがない限り心配ないさ」
と、女性は隣の部屋でうつ伏せに寝ている客を指差して言う。
どうやら、ルシアナはここで今日から働くマッサージ師と間違えられたことに気付いた。
人違いです! と訂正し、さっさと風呂に入ろうと思ったルシアナだったが、その客を見てあることに気付いた。
「……ちょっと行ってきます」
「ああ、頼んだよ。って、あんた、服!」
「いえ、必要ありません。これが私の戦闘服ですから」
ルシアナはそう言うと、客の施術用の薄い服を着ている品がよさそうな老婆の前に立ち、頭を下げた。
「はじめまして、お客様。シアと申します」
「あら、新人の子だって聞いていたけれど、可愛らしい修道女様ね。それでは――」
「左肩から左の脇腹にかけて、やけに硬く突っ張っている感じがするんですね」
「よくわかりましたね」
老婆は少し驚いたように言う。
「それは肩こりや関節痛ではなく、毒の初期症状です。マッサージでは取り除けませんので、解毒魔法を使用させていただいてもよろしいでしょうか?」
「あら、見ただけでそんなことまでわかるの?」
老婆はさほど驚いた様子もなく、ルシアナに尋ねた。
「はい――バジリスクマッシュと呼ばれる毒キノコの症状ですね。とても甘くて大好きなんですが、解毒魔法を掛けるのを忘れると体が硬くなってしまうんですよね。一つや二つだけなら肩こり程度の症状ですが、食べ続けると心臓付近の細胞まで硬くなり、死に至る毒です」
「あら、修道女さんもあのキノコが好きなの? ふふ、私もなの。そう、バジリスクマッシュっていう名前なのね。では、解毒魔法をお願いできるかしら?」
「はい」
ルシアナは軽く解毒魔法を使い、老婆の毒を取り除く。
毒が抜けたら、あとはリハビリでよくなるので、それを手助けするように身体をほぐす。つまり、普通のマッサージの時間だ。
その間、ルシアナは老婆と主にバジリスクマッシュについて世間話をした。
「そうなんです、バジリスクマッシュとコカトリスマッシュってほとんど同じ毒なんですけど、二つ一緒に食べるとお互いの効果を打ち消し合って、解毒魔法が無くても食べることができるんです。でも、一つ大きな問題があって」
「問題?」
「二つを一緒に食べると、不味いんですよ。なんででしょうかね、コカトリスマッシュも美味しい毒キノコなんですけど二つ一緒に食べると、もう土を食べている方が遥かにマシって味になってしまって――それなら毒を食べている方が遥かにマシです。なので、コカトリスマッシュを食べるときは、時間を空けて食べてくださいね」
「ふふふ、修道女様から毒キノコの食べ方を教わるなんて思いもしなかったわ。それに、とてもやさしいのね」
「やさしい……ですか?」
「ええ。だって、私が毒キノコを食べていたって聞いたら、誰に食べさせられたのか聞くのが普通でしょ? それこそ、衛兵を呼んで突き出した方がいいって――でも、それはできないの。やっぱりお腹を痛めて産んだ子だもの。重くお灸を据える必要はあるけれど、犯罪者にはできないわ」
老婆の言葉に、ルシアナは老婆が毒の状態だと指摘されて驚かない、本当の理由に気付いた。
彼女はとある資産家の当主で、彼女が死ぬことでその遺産が一人息子に渡ることになっている。ただ、彼女が生きている間はそのお金を自由に使うことができず、その息子にとって、この老婆は目の上のたんこぶだったらしい。
毒キノコを用意したのも、その息子だったのだとか。
極少量で、国外から輸入したキノコだと言われ、味も美味しかったため、毒だとは思わず毎日少しずつスープに入れて食べていたらしい。肩こりの症状が出てきたのは、ちょうどそのキノコのスープを食べ始めてからだったそうだ。
てっきり、自分で食べた毒キノコの解毒がうまくいっていないだけだと思っていたルシアナにとって、寝耳に水の話だった。
老婆はルシアナの解毒魔法、マッサージ、そして気遣いに感謝し、多額のチップをルシアナに渡すと、マッサージ店にも通常の何十倍もの料金を支払って満足気に帰っていった。
「いやぁ、大したものだよ。回復魔法を使ったマッサージっていうのはそんなに気持ちのいいものなのかい?」
「いえ、そういうわけでは――あの、私、マッサージ師ではなく」
「ほら、次の客が入ってるよ」
「だから――え?」
次の客を見てみると、今度は何故か悪霊に憑かれて、今にも呪い殺されそうな若い女性が横になっていた。あのまま放っておけば数日中に大きな事故に繋がる。
上流階級の女性というのは、かなり闇の深い人が多いらしい――とルシアナはため息をついた。