ルシアナは上流階級の風呂屋で、マッサージという名の治療を行っていた。
「はい、呪いは全部解けましたよ」
「ありがとう。ところで、呪いを掛けていた相手に仕返しをしたいんですけど、いい呪い屋を知りませんか?」
三十歳くらいの女性は、おっとりとした口調でとんでもないことを言い出した。
「すみません、掛ける方は専門外なので」
ルシアナは顔を引きつらせながらもなんとか笑顔で応対し、旦那の愛人に呪いを掛けられて体が重くなったという女性の治療を終えた。
今回ルシアナが相手をした客のほぼ全員が、普通のマッサージでなんとかなる範囲を超えていた問題のある客だったため、結局、彼女は本当のことを話す暇もなく治療を続けてしまった。
「ご苦労だったね。いやぁ、まさか三十分で予約していた客を全員治療しちまうとは、初日から大したものだよ」
恰幅の良い女性はそう言って笑い、ルシアナの肩を叩く。
「あの、実は私――」
「あ、いた! 君だよ君! 直ぐに来てくれ!」
ルシアナが自分は雇われた元修道女ではなく、ただの客であることを告げようとしたとき、片眼鏡をかけたちょび髭の男性が彼女の手を引っ張り、連れて行く。
「あの、私――! ここに雇われている人ではなくて――間違いで!」
ルシアナははっきり言った。
さっきまでは普通のマッサージで手に負えない患者ばかりだったので、仕方なく施術をしたが、これ以上突き合わされたら困る。
「わかっている! 冒険者のシア殿だろ!」
「え?」
「うちの従業員が失礼した! 何か手違いがあったらしい。だが、今は君の力が必要なんだ! 是非来てくれ!」
「えぇぇぇぇえっ!?」
ルシアナはそのまま関係者以外立ち入り禁止と書かれているプレートのかかった部屋に連れていかれた。
そこは会議室らしく、円卓を囲むように、六人の職員らしき人間が座っていた。
「シア殿を連れてきた!」
ちょび髭の男がそう言うと、職員たちが盛大な拍手でシアを出迎える。
何がなんだかわからないシアは、誘導されるまま椅子に座り、チョビ髭の男は最後の空席の後ろに立ち、言った。
「シア殿、無理を言って申し訳ありません。私はこの風呂屋の支配人、テマエと申します」
「あの、テマエさん、これは一体?」
「実は、我々は日々、皆様に風呂を楽しんでもらうため、新しい形の風呂を提供しているのですが。先日は赤ワインを湯に入れたワイン風呂を提供しました。そして、新しい形として、薬を使った薬湯を提供しようとしたところ、彼女からシア殿をマッサージ所で見掛けたという話を聞き、彼女の意見を聞けばきっといい案があるだろうと聞いたので、ここに連れてきた次第です」
「彼女?」
テマエに紹介され、立ち上がった若い女性を見ても、ルシアナは見覚えがなかった。
初対面のはずだ。
「私は以前からシア様のことを拝見しており、話をする機会をうかがっていましたが、ようやく機会が与えられたこと、神に感謝しないといけませんね」
「え? ええと、すみません、どちら様でしょうか?」
「私は薬師ギルドのギルド長、ロレッタと申します」
「薬師ギルドの!?」
薬師ギルドと言えば、モーズ侯爵家が没落したとき、その遠縁であったギルド長も解任され、新しいギルド長が就任した。
そのギルド長は前のギルド長に比べれば話のわかる人だとルークが言っていたのをルシアナは覚えていたが、まさか、このような若い女性だとは思いもしなかった。
ルークと同じくらいじゃないだろうか?
ロレッタが言うには、ルシアナが作っているポーションの品質がとてもいいので、どんな人が作っているのか、こっそり冒険者ギルドを覗いたことがあったそうだ。
その時に、ルシアナのことを見たらしい。
「薬師ギルドの誰よりもポーション作りに長けているシア殿なら、きっと薬湯作りにも造詣が深いとロレッタ様が仰って。是非、ご助力を願いたい」
そう言って、テマエが頭を下げる。
そういう風に頼まれれば断れないのが、ルシアナの悪いところであった。
「でも、薬湯といえば、いまはハーブ風呂があるんでしたよね? それではダメなのですか?」
「ハーブ湯は昔からあり、インパクトに欠けるのです。もっと、効果がハッキリとわかる薬湯はないものかと」
「となると……んー、ポーション風呂はいかがでしょうか?」
それを聞いたテマエや他の職人たちに、明らかに落胆の表情が浮かぶ。
「シア様は知っていると思いますが、ポーションは確かに飲む以外にも、体にかけても効果があります。しかし、それは一本丸々使わないと効果がありません。一人用のお風呂に入れてようやく効果が出ますが、一人入ったら効果がなくなってしまいます。費用の面でも高くつきますし」
どうやら、ポーション風呂の案は既に出ていて、ロレッタが既にそれはできないと説明した後だったらしい。
「それは普通のポーションの場合ですよね? ミストポーションを使用するのはどうでしょうか?」
「ミストポーション? シア様、それはなんでしょうか?」
「範囲回復魔法を込めたポーションを蒸気にすることで、その蒸気の範囲内にいる人を回復させることができるんです。普通のお風呂では使えませんが、蒸し風呂の焼けた石に直接ポーション全部かければいいですね。最下級のミストポーションでも、身体の細胞に癒しを与え、小さな染み程度でしたら落としてくれます。ただ、一本銅貨十枚程度、効果は三十分ほど継続しますので、一時間にかかる費用は銅貨二十枚です。少し割高ですが」
「いえ、その程度でしたら可能です。期間限定の目玉として人を呼ぶのにちょうどいい――」
「待ってください、範囲回復魔法のポーションへの応用は薬師ギルドでも研究されてきましたが、そんな方法、聞いたことがありません」
「え?」
ルシアナは不思議に思った。
確か、ファインロード修道院で先輩修道女から教わった。
『ルシアナ、王都では、いま、範囲回復魔法を施したポーションを蒸し風呂の焼石にかけて、蒸気で部屋にいる人全員に癒しを与えるミストポーションっていう新しいポーションが流行ってるのよ』
『それって、おかしくないですか? 蒸気で癒すなら、ミストポーションじゃなくて、スチームポーションですよね?』
『気になるのそこ? わからないけれど、開発した聖女様が名付けたからミストでいいんじゃない?』
ルシアナは思い出した
聖女ミレーユが開発したと先輩修道女が言っていたことを。
彼女が聖女として認められるのは、ルシアナが十七歳のとき――つまり、今から四年後であることを。
つまり、まだミストポーションはこの世界に広がっていない。
「ち、違います! 今のは気のせいです!」
ルシアナは慌てて訂正した。
このままでは、聖女ミレーユの功績を盗んでしまうことになる。
「いや、しかし、今の話を聞くと随分と具体的だったような」
テマエもロレッタも、そしてそれを聞いていた他の人間もルシアナが言ったミストポーションについて前向きに検討を始めた。
ロレッタがシアの方を向いて尋ねる。
「早速研究をしてみたいのですが、シア様、いいですか?」
ルシアナは断ろうとした。だが――
「これを今すぐ研究できれば、たとえば大勢の方が毒で苦しんでいる時、一本の範囲解毒魔法を施したポーションで一気に治療ができるようになります。大勢の方が救われる世紀の発明になります。逆に、この薬の開発が一年遅れたら、それだけ多くの命が救えなくなってしまいます」
「それは……」
そう言われたら、ルシアナは断れない。
だが、ここで素直に認めてしまえば、やはり聖女に申し訳が立たない。
だから、ルシアナは条件を加える。
「ロレッタさん、一つだけ条件があります。まず、私が開発したということは今のところ内密にしてください」
「……今のところというのは、どういうことでしょう?」
「えっと、近い未来、聖女様がこの国に現れる気がするんです。その時、そのミストポーションで得られた利益のうち、開発者に支払われるべきお金を、聖女様のために使ってほしい……というのはできますか?」
「近い未来に聖女様が――それは教会のお告げですか?」
「聖クリスト様の予言です」
ルシアナがそう言うと、ロレッタは頷き、「わかりました。私がギルド長でいる間に聖女様が現れたときは、可能な限り、その聖女様のために尽力することを誓います」と言ってくれた。
これで、ミストポーションを開発したという名誉を奪ってしまったが、開発によって得られる利益は返すことができて、さらに薬師ギルドを味方にすることもできた。
念のため、契約魔法を――というのはやめておこう。
そこはロレッタのことを信用することにした。
「おっと、もうこんな時間か。では、ロレッタ殿はこれから薬師ギルドに戻らないといけないのであったな」
「はい。私の都合に合わせて頂き、ありがとうございます」
「いやいや、おかげでシア殿にも貴重なご意見をいただけた。それとシア殿、無理を言って会議に参加してもらってすまない。部下が新人と間違えてしまった謝罪もかねて、この風呂屋永久無料パスポートを進呈します。いつでも来てください」
テマエはそう言って、真っ黒のカードをルシアナに渡した。
これを使えば、本人限定でいつでも無料で風呂屋を利用できるらしい。ただ、飲食や散髪、マッサージその他オプションは有料だと書いている。
「ありがとうございます」
「では、私はこれで失礼します。朝の八時までに戻らないと、秘書に怒られてしまいますので」
ロレッタはそう言って慌てるように部屋を出た。
(薬師ギルドのギルド長も大変ですね、ルークさんも少しは頑張って……朝の八時まで?)
ルシアナはふと部屋にある時計を見上げた。
朝の七時五十分。
……マリアがいつもルシアナを起こすまであと十分。
「私も用事があったんです! 失礼します!」
ルシアナは急いで部屋を出て外に向かった。
それを見送ったテマエたちは和やかな雰囲気で言う。
「ミストポーションの報酬は近い未来現れる聖女様に……か。とても立派な考えだ。本当にうちの従業員になってほしいものだ」
「マッサージを受けたご婦人方にもシア様の名前は広がることでしょうし、宣伝効果は抜群ですね」
「ロレッタ様が仰るには、中流階級地区、下流階級地区にもシア様の名は既に広がっているそうです。そして、薬師ギルドにもきっと――」
「近い未来か……その未来が来るのが本当に楽しみだ」
そして、会議に参加していた彼らが思い浮かべる将来現れる聖女の姿は一致していた。
彼らにとって、聖女に相応しい人物は一人しかいなかったのだ。
「お嬢様、何をなさっていたんですか! ずっと捜してたんですよ!」
「ごめん、マリア! 間に合うかな――!」
「走ればまだ間に合いますが――それでお風呂はどうでしたか」
「全く入ってません!」
「本当に何をなさってたんですか!」
こうしてルシアナの初めての風呂屋訪問は、お風呂に一回も入ることがないままマリアに怒られて終わりを迎えるのだった。