翌朝、ルシアナとマリアは当宿自慢の温泉と呼ばれるものに入ることになった。
時間ごとに区切られている王都の風呂屋と違い、この宿では男女別々のお風呂が用意されていて、宿に宿泊している人ならいつでも入ることができる。
現在、宿は公爵家の貸し切り状態のため、女性用の温泉に入っているのは彼女たち二人だけであった。
「マリアはこの街に住んでたのよね? あなたもこの温泉に入ったことがあるの?」
湯浴み着に着替えながら、ルシアナはマリアに尋ねた。
結局、風呂屋では一度もお風呂に入る事ができなかったため、浴場でのマナーの実地訓練はできなかったのだ。
「いえ、ここは上級貴族が泊まる宿でしたので私は入ったことがありません。侯爵家の養女になってからはこの町には一度も帰ってきていませんでしたし。あ、でも庶民の温泉も気持ちいいですよ。露天風呂とかありまして」
「露天風呂とは一体なんですか?」
「屋外にお風呂があるんです」
「屋外にお風呂ですか……それは大変でしたね」
公爵令嬢としては、屋外にお風呂があるなんて信じられないことであったが、貧乏修道女を経験した身であれば、夏に泉で修道女が集まって水浴びをすることもあったため、庶民はそういうものなのだろうとルシアナは納得した。
屋外での水浴びは、覗きとの戦いだった。
ルシアナもその時は覗き相手に奮戦したものだ。
自分たちだけの境遇かと思っていたが、水と湯の違いはあるとはいえ、同じようなことをしているとあって、少し安心した。
「お嬢様、一応他の人からは見えないように囲いをしていますし、治安維持のため、この町での覗きは重罪ですから、心配なさるようなことはないですよ」
「あら、そうなんですか」
「なんで、少し残念そうなのですか?」
マリアは半眼で尋ねたが、明確な答えはルシアナには用意できなかった。
床も壁も浴槽も、全て大理石でできている豪華な風呂で、浴槽にはお湯がかけ流しされている。
マリアと二人で使うにはもったいない気がする広さだった。
「凄いですね、部屋は狭かったですけど、お風呂だけなら私の家のお風呂より広いです」
「温泉で源泉からのかけ流しです。定期的に掃除を必要とする以外、薪も必要ありませんからね。温泉地ならではの贅沢です」
「これが硫黄の臭いですか。卵が腐ったような臭いだと聞いていたのでどうかと思いましたが、それほど嫌いではありません」
「確かにこれなら大丈夫ですが、硫黄は燃えると凄い臭いですよ」
硫黄を燃やしたときに出る悪臭は本当に酷く、懲罰刑の刑罰に使われることもある。
もっとも、それをしたら懲罰官も巻き添えを食うので、トラリア王国では長く使われていない。
「――ふぅ」
湯舟に入り、ルシアナは息を漏らす。
湯浴み着の隙間からお湯が入ってくる。
「気持ちいいですが、広さ以外は家のお風呂とはあまり変わりありませんね」
「いえいえ、お嬢様。肌を撫でてみてください」
「肌ですか?」
ルシアナが二の腕を触ってみる。
「ぬめぬめしています」
「そこはすべすべと言ってください。この温泉は美肌の湯なのですから。しかも、源泉かけ流しで私たち以外誰も使っていない温泉なんて貴重なんですよ」
「そうなのですか」
ルシアナは美肌にはあまり興味がないのだが、マリアはお湯で顔をばしゃばしゃと洗っている。
顔のそばかすを気にしているのだろう。
ルシアナが作った最下級ポーションの美容液により、そばかすもだいぶ薄くなってきていて、温泉に入るよりもそちらの方が肌によさそうな気がするのだが、マリアが嬉しそうにしているので、ルシアナは余計なことを言わずに、温泉を堪能――
「あ、ファル様と待ち合わせですから、出ますね。一緒に朝食をとる事になってるの」
できなかった。
入浴時間五分、カラスももう少し長く行水するのじゃないか? と思うくらいの時間である。
「え!? もうですかっ!?」
「私一人で準備できますから、マリアはもう少しゆっくり入っていていいですよ」
「それはできません。側仕え候補の役割ですから!」
マリアはそう言うと、桶に入っている、真水を沸かしたお湯でルシアナに掛け湯をする。温泉の独特な硫黄の臭いを嫌う貴族も多いので、最後にこうやって臭いを洗い流す。
そして、脱衣場に通じる扉を開け、ルシアナの着替えを手伝うのだった。
後でもう一度ゆっくりお風呂に入ればいいとマリアが思っていることは、勘の鈍いルシアナにもわかった。
朝七時。町はもう動き出していた。
昨日は気付かなかったが、あちこちから湯気が上がり、温泉地独特の硫黄の匂いが立ち込めている。
「本当にこの町は凄い臭いだな。鼻が曲がるよ」
護衛としてついてきているキールが嫌そうに言う。
「キールさんはこの臭いは嫌いですか?」
「スラム街ほどじゃないけどな。まだ慣れない。身体に臭いが染みついて、風呂に入れば臭いがさらにきつくなるのも困る」
「真水のお湯で掛け湯はしなかったのですか?」
「それはそれで面倒だろ……って、ここだな、冒険者ギルドだ」
王都の冒険者ギルドより一回りほど小さな建物で、食事を提供している酒場は併設されているが、入り口は別にあるらしい。
ルシアナはひとまず酒場に向かった。
「ファル様!」
酒場に行くと、葡萄水だけが置かれたテーブルに、バルシファルがいた。
「やぁ、シア、キール。待ってたよ。ここは定食は一種類しかないけど、量は調整できるからね。ちなみに、あれが並盛だけど、どうする?」
バルシファルの視線の先には、大きな木の器一杯に入っている野菜たっぷりのスープだった。
量はとても多く、ルシアナには少し多そうだ。
「俺はあれでいいな」
「私はあの半分くらいで結構です」
量が決まると、バルシファルは纏めて四人分を注文した。
「そういえば、ファル様。伺いましたよ。盗賊団を一網打尽になさったとか。でも、その盗賊って、少し理由ありなんですよね?」
「そうか、シアの耳にも届いていたのか。でも、私一人で倒したのではなくて、他の冒険者と一緒に戦っての成果だからね」
バルシファルが謙遜してそう言った時だった。
扉を開けて入ってきた一人の冒険者――いつもルシアナに飴玉をくれるワーグナーだった。
「あ、ワーグナーさんもいらっしゃったんですね。(ファル様、一緒に食事にお誘いしてもいいですか?)」
ルシアナは小さな声でバルシファルに尋ねたが、
「シ……シアちゃん、違うんだ。俺は――俺は違うんだ!」
そう言って走り去ってしまった。
「……ワーグナーさん、どうなさったのでしょう?」
もしかしたら、ルシアナとシアが同一人物であることに気付いたのだろうかと不安になったのだが、バルシファルは微笑んで言う。
「彼にもいろいろあるんだろう」
「はぁ……いろいろですか」
そのいろいろが何なのか、ルシアナにはわからなかった。