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第100話

 六年前。

 ルシアナがアネッタの誕生祭に訪れ、モーズ侯爵の悪事を暴き、マリアンヌの魂を解放したその翌日。

 王都に帰ることになったその日、ルシアナはモーズ侯爵に挨拶するため、彼の執務室を訪れていた。


「ヴォーカス公爵令嬢――世話になった」


 たった一晩だというのに、モーズ侯爵は随分やつれて見えた。

 王都に報告するための書類を、一晩中纏めていたのだろう。この書類の出来次第で、アネッタや、寄子の貴族たちの処遇が決まることを、彼は誰よりも理解していたのだろう。


「お世話になったのは私のほうですわ。特にスコーンは大変美味でした。レシピを教えていただきたいくらいです」

「料理人も喜ぶだろう。どうだ? 公爵家で雇ってみては?」

「私の一存では決められません。それに、決まっていないのはあなたの処遇もですよ? 何事もなかったとき、料理人がいなければ誰があなたに料理を作るのですか?」

「その時は自分で作るさ。こう見えて、若い頃は料理が趣味でな。死んだ妻がはしたないから止めるように言ってしまったが、腕は錆びついていないはずだ」


 そう言って、モーズ侯爵は静かに微笑む。

 疲れているのに、まるで憑き物がとれたような、そんな朗らかな笑みを見て、ルシアナはモーズ侯爵の減刑を望んだ。

 そして、ルシアナはもう一度挨拶をし、最後にアネッタとゆっくり話そうかと思ったところ――


「ヴォーカス公爵令嬢、私にもしものことがあったらアネッタのことを助けてやってほしい」


 モーズ侯爵がそんなことをぼそっと言った。


「あの子はとてもいい子だ。養女にしたが、私の娘にはもったいないほどにな。そして、こんな私をとても愛してくれている」

「――知っています。私の友達にはもったいないくらいいい子だって。だから、頼まれなくたって守ります」


 ルシアナは当たり前のことを当たり前のように言った。


「それでも、人は誰もが闇を持つ。これは、いまは亡きトールガンド王国の元女王が言っていたことだ」

「元女王というと、ゲフィオン様でしたか? トールガンド解放軍を率いていたあの――」

「ええ、悪い噂ばかりが先行し、いまではまともな話は残っていないがな。とても素晴らしい方だった。私も領民さえいなければ、私兵を率い、あの方の元に馳せ参じたかった。彼女にはそう思わせるカリスマがあった」


 その言葉は、捉えようによっては現在の国家に対する叛意と取られても仕方のない言葉である。国家反逆罪による自首を考えている彼が一番口に出してはいけない言葉でもあった。

 だが、その言葉はゲフィオンだけではなく、ファインロード修道院の修道院長も言っていた。


『いいですか、ルシアナ。罪と向き合うとは、自分の闇と向き合うことです。人は誰しも闇を持つ生物です。闇を避けてはいけません。目を逸らしてはいけません。人は生まれながらに、善と悪、光と闇、その両方の心を持っています。人が光の道を歩こうとするのなら、闇を引きずって歩きなさい』


 その言葉はルシアナの中に強く残っている。


「きっと、アネッタの中にも闇はある。私が死ねば、彼女は表向きは誰も恨んだりしない。私の罪を理解し、誰も恨んではいけないと己を律し、そして前に向かって歩く。彼女はそんな子だ。だが、闇は残る。一体、誰のせいで自分の父が死んだのかと思う。早くに亡くなった姉のマリアンヌ。罪を犯した私。私を罰する国王陛下。そして――」

「モーズ侯爵の罪を暴いた私。そして――」

「ああ。だから、もしも何かのきっかけで、アネッタの闇が芽吹くようなことがあれば、どうか伝えてほしい――」


   ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「モーズ侯爵は言いました。王家の方を恨んではいけません。マリアンヌ様を恨んではいけません。どこの誰かもわからぬ術者を恨んではいけません。マリア、あなたが父を失ったことで誰かを恨むようなことがあったらその時は――」


 ルシアナはマリアに最後の言葉を伝える。


「全ての原因はヴォーカス令嬢、つまり私にあるとモーズ侯爵は仰いました。だからマリア――あなたは私以外、誰も恨んだりしないでください。絶対に、誰も恨んだりしないでください」

「言われなくても、私が恨んでいるのはお嬢様です――お父様の言う通りです。全ての原因はお嬢様の――」


 マリアの目から涙が零れた。


「そんなはずがないです。お父様が全てお嬢様のせいにするようなことを言うはずがありません」

「いいえ、マリア。私が――」

「お父様は言ったんですよね。全ての罪は自分にある。だから、他の誰も恨むんじゃないと」


 その通りだった。

 それがモーズ侯爵が最後にルシアナに遺した言葉。

 そして、絶対にマリアには言ってはいけないと思った言葉でもあった。


「違います、マリア――」

「違いません。確かにお父様はマリアンヌ姉さまのことばかりで私のことは二の次という感じでしたが、でも、本当に私が困っていたときは優しく手を差し伸べてくれる、そういうお父様だったんです。そんなお父様が自分の死をお嬢様のせいにするなんて――むしろ、お父様が死んだのは」


 マリアがルシアナからナイフを抜き、そのナイフで自らの死を選ぼうとする。


「ダメです」


 ルシアナはマリアの腕を掴み、抱き寄せる。


「お嬢様、手を離してください」

「わかっていたんです。お父様が死んだのは誰のせいでもないって。お父様のせいでもなく、お嬢様のせいでもなく、私が――私がお父様を――」

「違います! それだけは絶対に違います!」


 マリアの闇をすべて引き受けるつもりで言ったルシアナだったが、下手に過去の記憶を刺激したせいで呪法が暴走している。今のマリアは、自分への恨みに満ちている。

 いまのマリアは非常に危険だ。

 呪法で一度眠らせようと思うも、呪法を使うには生命力が必要だ。

 お腹を刺されて出血しているいまのルシアナが呪法を使えば命にもかかわるし、何より、マリアの心が救われない。

 どうにかしないといけない――そう思ったとき、バルシファルが言った。


「その通りだよ。モーズ侯爵が死んだのは、彼自身のせいでもある、シアのせいでもあり、そして君のせいでもあるんだ、アネッタ嬢」


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