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第106話

「はぁ……憂鬱です」


 馬車の中で、ルシアナはそうため息を吐いた。

 途端に馬車が大きく揺れる。

 普段の悪役令嬢ぶりを発揮するなら、ここで護衛に対して怒鳴らないといけないのだが、いまの馬車の御者はキールだし、周囲にいる護衛達もルシアナの秘密の一部を知っている者たちだ。

 ここで悪役令嬢ぶりを発揮しても意味がない――という建前よりも、単純にそんな心の余裕がなかった。

 アーノルからの帰還命令。

 それに、今のルシアナは逆らうことができなかった。

 悪役令嬢を演じ、いつかは公爵家を追放されたいと思っているが、公爵家としてはシャルド殿下と婚約破棄が済んでいないルシアナを追放するわけにはいかない。

 そう思っていたら、父アーノルが続けて言う。


「ルシアナ、これは決定事項だ。もしも嫌だというのなら――」

「公爵家を追放するのですか?」

「明日からでも王家に入ってもらう。王立学院を卒業にいるまでは自由でいてもらおうと思っていたが、王家からシャルド殿下の婚約者である君の教育をしたいという話が出てね――」


 それは困るとルシアナは思った。

 城なんかに入れられたら、今のように自由に城下に抜け出せなくなる。


「何、私がここにいるのは三カ月程だ。その間、カイトの補佐を頼む」


 というわけで、ルシアナはその三カ月という言葉を信じ、公爵領に行くことになったわけだが、それが決まってから、ずっと彼女は気分が優れなかった。


「お嬢様、カイト様が苦手なのですか?」


 マリアが尋ねる。


「苦手というか……」


 前世では、カイトはルシアナを公爵家から追放した張本人であるのだが、それがカイトに会うのが憂鬱であるわけではない。

 ルシアナがカイトと会ったのは数える程しかない。

 それも幼い頃と、そして悪役令嬢として断罪されるときの記憶だ。

 その会ったときも全くと言っていいほど目を合わせてももらえない。

 苦手というより、ほとんど知らない相手と言ってもいい。


「何を考えているかわからないんですよね」


 ルシアナは何度目かのため息を吐く。

 馬車が大きく揺れた。

 ルシアナは怒らない。



 公爵領は王都から近い距離にあるため、昼前に出発したのに、太陽が沈む前には領主町に入る事ができた。


「随分と久しぶりに帰ってきた気がします」


 前にここに来たのは、前世の王立学院の夏休みのことだった。

 周囲の人間に、「今年の夏は殿下とバカンスの予定ですの」と言って回ったのに、結局シャルドと連絡が取れずに一人っきりになってしまった。

 そして、王都にいることを誰かに知られたら困ると思って、逃げるように公爵領に帰った。

 その時も離れに身を隠していたため、カイトには会わなかったが。

 ただ、前世で訪れたときより、領主町が随分と賑わっている気がする。

 ルシアナはその理由に直ぐに気付いた。


(あ、お父様がいるから――)


 前世では公爵であるアーノルは既に亡くなっていた。

 カイトが優秀であったとはいえ、若い新領主に領民は不安を感じていたに違いない。

 だが、現在はアーノルが現役で公爵として働いている。


(お父様が生きていることでここまで大きな差が出るのですね)


 改めて、ルシアナは父であるアーノルの存在の大きさを理解した。

 そして、同時に思う。

 これだけ街に活気があふれるほど変わっているのであれば、あの不愛想だったカイトも、良い方向に性格が改善している可能性があると。

 ルシアナはそんな風に思い、公爵邸にたどり着いた。


 公爵家の本邸は単純に規模でいうと別邸の三倍。小国の城より大きいと言われている。

 何しろ、トラリア王国で最も権力を持つ貴族の屋敷である。

 馬車の中から見ていたら、屋敷の全体像が見えてこない。


「立派なお屋敷ですね」

「あら、マリアはここに来たことはなかったかしら?」

「はい……(お父様は何度か訪れたことがあったみたいですが、私は留守番を申しつかっておりましたので)」


 とマリアは小声で説明をする。


「なら、案内しますわ。私も長い間留守にしていたとはいえ、自分の家の構造くらいは覚えていますから」

「お嬢様、少し元気になられました?」

「ええ、町の活気にてられたのかしら」


 ルシアナはそう言って馬車から降りると、老執事が出迎えた。

 執事見習いのキールとは根本的に立ち方から異なる、公爵家の本物の執事だ。


「久しぶりですわね、セバスチャン。元気そうでなによりだわ」

「お嬢様も大きくなられましたな。このセバス、お嬢様のお帰りを首を長くしてお待ちしておりました。して、そちらは?」

「側仕え見習いのマリアと、執事見習いのキールよ。特にキールは執事見習いとしてはまだまだ未熟だから、セバスチャン、少し教育してもらえるかしら?」

「え、お嬢様、聞いていませんよ!?」


 キールは一応丁寧に言うが、


「キールと言いましたか。お嬢様の命令を聞いて、その態度はいただけませんね。なるほど、確かに教育が必要そうです」


 と目を光らせてキールに言った。


「でも、先にお兄様のところに案内してくれるかしら?」

「ええ、もちろんです。坊ちゃまもお嬢様のことをお待ちしていたはずですよ」


 そう言って、セバスチャンは上機嫌に屋敷の扉を開け、ルシアナを執務室へと案内する。

 執務室の扉が開いた。


 そこには、執務机に向かって書類仕事をする一人の青年――カイトの姿がった。


(お兄様……見た目は私を追放したときより少し若い感じですが、雰囲気はその時と変わっていませんね。でも、きっと性格は丸くなっているはずです)


 そう思うと、まずは挨拶してみることにした。


「お兄様、お久しぶりです」


 すると、カイトは顔を上げ――なかった。

 いや、僅かに首が動いたが、ルシアナの顔が見えるか見えないかというところで、視線を再び書類に戻した。


「来たのか。話は聞いている。仕事については明日話をするから今日は部屋で休んでいるといい」

「あの、でしたら今夜は一緒に食事でも――」

「悪いが仕事が立て込んでいる。食事はここで済ませるから、話す時間はない」


 ルシアナに視線を向けることなくそう言った。

 なんてことはない、カイトの性格は、アーノルの生死に関係なく、全く変わってもいなかった。


(これから、ここでやっていけるのかしら)

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