ルシアナの朝は早いが、慣れない場所のせいか、いつもより早く目が覚めた。
まだマリアが寝ている時間に起きて、鞄の中から木彫りの女神像を取りだすと、祈りを捧げる。
この神聖な時間は誰にも邪魔されたくないと思っている――のだけれども、今日は思わぬ来客に祈りを中断させられた。
「わふ」
神獣が祈りをしているルシアナの横でそう鳴いた。
「おはようございます、神獣様。いまは神様に祈りを捧げているんです。神獣様も一緒にお祈りしませんか?」
「わふん」
「はい。マリアもキールさんもまだ寝ているはずですから、静かにお願いしますね」
ルシアナが小さな声でそう言うと、神獣は黙って頷き、女神像を見詰めた。
一人と一匹で祈りを捧げる時間は三十分ほど続いた。
そして、祈りを終えたルシアナは立ち上がり、
「神獣様、一緒にお散歩に行きませんか?」
「わふ」
尻尾を振って静かに答えたのだった。
二人で外に出ると、既に東の空はうっすら青くなっていた。
王都の貴族街だと、この時間でも出入りの業者が各屋敷の裏に回っては食材を届けて回っているのだが、村ではまだ皆寝ているのか、外に出ても誰もいない。
こんな時間に一人で出かけたことが知られたら、キールに怒られるだろうけれど、今日は最高のボディーガードがいるから心配ないだろうとルシアナは思った。
「神獣様、キールの代わりに護衛をお願いしてもいいですか?」
「わふ」
「ふふ、ありがとうございます」
ルシアナには、森の民の族長のように神獣の鳴き声を翻訳することはできない。
でも、その鳴き声は、「任せろ、お前の身は俺が守る」と言っている騎士のように頼もしく見えた。
春先の冷たい朝の空気を全身に浴びながら、ルシアナは村を見て回る。
近くの森の木材で建てられた家の数は、村としては中規模くらい。
人口は森の民が三十人、青年団たちの家族が五十人。
青年団は若夫婦が多いため、彼らが引っ越してから一年の間に三人の子供がすでに村に生まれたらしい。
ちなみに、森の民もルシアナと出会ってから七年の間に八人の子供が生まれているそうだ。
本来、開拓村で子供が生まれた場合、その大半は冬を越せずに亡くなってしまうそうなのだが、神獣の加護か、それとも森の実りが豊かだったお陰か、子供たちは健康に育っているそうだ。
「畑の様子を見に行きましょうか」
「わふん」
この村では管理者もいないのに、三圃制が導入されているらしい。
休閑地は雑草が生い茂っていているが、春撒きの畑はこれからのために整備を進めている。
そういえば、三圃制を最初に導入したのは、王家の直轄地の町であったが、その場所はヘップの町に近い。
同じヘップの町に近い村で育った青年団たちならば、三圃制の畑の噂も聞いていて、その効果の高さも知っていたのだろう。
「こちらは秋植えの小麦畑ですね。これは豊作の予感がします」
小麦畑の横には溜池があり、冬眠から目覚めたばかりかもしれない大きなカエルがいた。
神獣様が追いかけると、カエルは驚いて飛び跳ね、溜池の中に入っていった。
神獣とルシアナはカエルを目で追いかけるが、すぐに潜って見えなくなる。
「わふぅ」
神獣が残念そうに言う。
「神獣様、カエルをそのまま食べたらお腹壊しちゃいますよ……あ、神獣様だから大丈夫なんですかね?」
さっきのカエルは耳の後ろに毒腺があるから触れるときに気を付けなさいと教わった。
食べられるのは足くらいなものだが、前世の修道院時代では貴重なたんぱく源の一つだった。
「……あれ、結構おいしいんですよ。鶏肉に似てるんです……お昼ごはんに一匹捕まえたいですね」
と言って、ルシアナと神獣は池の前で他のカエルが出てくるのを待ってみるけれど、結局他のカエルが出てくることはなかった。
どうやら、あのカエルが特別寝坊助だったらしい。
「シアさん、おはようございます。お早いですね」
「聖女様、神獣様、お散歩ですか?」
村に戻って歩いていると、村人たちが水汲みをしていたので、ルシアナも挨拶をする。
「おはようございます。はい、神獣様に村を案内してもらっています」
ちなみに、神獣様については、村の守り神として、既に青年団たち森の民以外にも受け入れられていた。
というのも、青年団が引っ越して来て数日後、村にゴブリンの群れが襲って来たとき、青年団の妻が狙われたのだが、それを追い払ったのが神獣だったそうだ。
その不思議な力を目の当たりにした青年団は、聖女の髪の色については認めていないが、神獣については、神獣かどうかはわからないが、敬うべき対象として見ているそうだ。
「わふっ!」
「え? 神獣様、どこにいくんですか!?」
その神獣が突然走り出した。
ルシアナは急いでその後を追いかけると、六歳くらいの子供がこけていた。
近くの地面に濡れたあとと、桶が転がっているので、水を運んでいるときに転んだのだろう。
膝をすりむいている。
神獣は子供の傷口をペロペロと舐め始めた。
傷口は舐めたらよくない――あ、神獣様は本来は実体のない神様だから清潔なのかな。
「大丈夫? 今、回復魔法を掛けてあげるからね」
と言って、回復魔法を掛けると、膝の傷が綺麗に治った。
「……え?」
「もう大丈夫よ。立てる?」
「うん、ありがとう、お姉ちゃん、神獣様!」
子供は嬉しそうに神獣の頭を撫でると、神獣も嬉しそうに尻尾を振った。
その後、ルシアナは子供の水汲みを一緒に手伝い、家の前まで一緒に運んだ。
家の前で、子供が「ありがとう」ともう一度言ったので、「今度は転ばないようにね」と言って別れる。
「神獣様、本当に子どものことを見守っているのね」
「わふ」
「はい、これからもよろしくお願いします」
そろそろ戻ろうかと思ったとき、キールが走ってきた。
「ここにいたのか、心配したぞ」
「あ、すみません。少しの散歩のつもりだったんですが」
「まぁ、神獣様が一緒なら大丈夫だと思うが、一言声を掛けてくれ」
ルシアナは、寝ているキールを起こすのが嫌だったのだと思ったのだが、キールは直ぐに気付いて言う。
「起こしてくれても構わないから。むしろ、『お嬢様がいません!』というマリアの声に起こされた方が目覚め最悪だし」
「うっ……それはマリアにも申し訳ないことをしました。急いで戻りましょう」
その後、家に戻ってマリアにも謝罪した。
マリアは快く許してくれて、三人で朝食を終えた。
その後、さっき回復魔法を掛けてあげた子供とその親がやってきて、
「聖女様に傷を治していただいたそうで、これ、さっき獲れた獲物なのですが、よろしければ――」
と彼女が持ってきたのはカエルの足だった。
「まぁ、立派なカエルの足! ありがとうございます、さっそく昼食に食べさせていただきますね」
と嬉しそうにルシアナは受け取ったが、マリアは少し嫌そうな顔をしていた。
マリアがカエル料理――というより、カエルそのものを苦手としていることに、ルシアナは気付かなかった。