宿に戻ったルシアナは、早速貴族令嬢としての姿になり、護衛とともにステラのいる村へと向かった。
馬車の中に、甘い蜜菓子の匂いが立ち込める。
「甘い匂いはいいのですが、馬車の中だと車酔いしそうですね」
ルシアナはあまり車酔いしないタイプなのだが、さすがに蜂蜜の匂いが立ち込めていると気分が悪くなってくる。
それはマリアも同じようで、少し窓を開けて換気をしたいと思ったのだが――
「お嬢様、町を出るまでは窓は閉めていてください」
警備の都合上、ここで窓を開けるのはあまりよくないらしく、護衛に注意された。
結局、ルシアナたちは自分たちが買った蜂蜜の菓子の匂いに気分が悪くなった。
とはいえ、町を出て草原に出たら危険も減るようで、窓を開けたらむしろ心地いい。
蜂蜜の匂いに誘われて獣が寄ってこないか心配したルシアナだったが、蜂蜜好きの熊でも現れたら、今夜は熊鍋にしますよとキールは張り切っていた。
ステラと会うとわかってから機嫌が良かった彼だが、本当に機嫌がいい理由は、最近森の民と同じ村で過ごしていることにあるのだろう。
彼は森の民によって育てられ、そして森の民の掟により村を追い出された。
だが、その森の民も今は掟を捨て――いや、変えて、人と交わって生きている。
キールも森の民と一緒にいることができて、口には出さないが色々と思うところがあったのだろう。
「キールさん……その、キールさんが望むなら森の民の方々と一緒に……」
「辞めないぞ、お嬢様。俺はやりたくてお嬢様に仕えてるんだから。お嬢様がお嬢様でなく、公爵家を追い出されてシアさんになっても一生仕えさせてもらうつもりだ……迷惑じゃなかったらな」
「ふふふ、その時もお願いしますね」
ルシアナはそう言って、迷惑ではないと主張する。
不死生物相手には一流の冒険者以上に戦えると自負するルシアナであるが、それ以外の相手との戦いになると、途端にルシアナは無力になる。
護身術は今でも教師を呼んで教わっているが、それはあくまで人間相手に使うものであり、魔物相手には通用しない。ルシアナ一人では、光の魔法を使って相手の目を眩ませている間に逃げるくらいしかやりようがないし、ウルフのような鼻が利く魔物を相手にするときはキールのような戦える者に頼るしかない。
「私も――お嬢様が公爵家を追い出されて仕事が無くなっても、私が働いてお嬢様を支えます!」
「マリア、気持ちは嬉しいのですけれど、さすがに自分の分は自分で稼ぎますよ」
今でも、冒険者ギルドのポーション作りでかなり稼いでいる。
冒険者ギルドからも正式に職員として働かないかと何度も打診が来ているし、薬師ギルドからも新薬の使用料が定期的に入ってきている。
普通の没落貴族なら、その程度の稼ぎでは貴族時代の贅沢が抜けきれずお金に苦労するだろうが、ルシアナはファインロード修道院時代の赤貧生活が抜け切れていないため、そちらの面でも苦労することはなさそうだ。
とはいえ、キールとマリアを雇う以上はお金の面で苦労を掛けたくないので、新たにお金を稼ぐ方法も模索していたりする。
(あれ? お金で言えば、お兄様に金遣いの荒さを控えるように言われた時期がありましたね)
ルシアナはふと前世の記憶を思い出す。
シャルドの婚約者であったルシアナに対し、彼女の兄であるカイトはほとんど口を出さなかった。
ある時期だけ、お金が必要だから浪費は控えるようにと通達があったことを思い出す。
なんでも、公爵家でお金が必要となる事件が起きた気がするのだが――
(……うぅ、思い出せません。結局、浪費を抑えなかったということだけは覚えていますが)
前世の記憶の頼りなさがまたも露見した。
ルシアナの最大の欠点がそこにある。
前世のルシアナは自分の興味のないことはほとんど覚えていない。
もしも記憶力が優れていたら、モーズ侯爵の悪事についても貴族裁判の陪審員としての記憶で直ぐに思い出せたし、西の砦付近の流行り病についても思い出して警戒を促すことができたかもしれない。
(やはり、記憶回復ポーションは必要ですね)
ルシアナは渋い表情を浮かべてそう決意し、
(お嬢様、まだ薬の苦さに顔をゆがめてる……美味しい水でもあればいいんだけど)
とマリアはそう勘違いしたのだった。
そして、馬車は昼過ぎにはステラの住んでいる村に到着する。
村と言っても、町とあまり変わらない。
村民たちが住む住居の周りにも煉瓦で組まれた立派な壁が聳え立っていて、魔物や盗賊の侵入を拒んでいるようだ。近々、村から町に格上げが決まるらしい。
そして、村の門には門番もいた。
村の自警団が交代で見張っているようで、その日は五十歳くらいのおじさんが見張りをしていた。ルシアナが乗っている馬車に最初に気付いたのも彼だった。
貴族が乗るような馬車が、何の前触れも無しに訪れるのは滅多にないことらしく、村人たちは混乱し、村長が慌てて駆け付ける騒ぎとなった。
ステラに用事があって来たとキールが説明したら、すぐに納得し、彼女のいる家まで案内してくれた。
「まぁ、これはこれはお嬢様、よくぞいらっしゃいました。おなつかしゅうございます」
先に連絡を貰っていたステラと子供が家の前で馬車を迎えてくれた。
「お久しぶりです、侍従長」
「お嬢様、私はもう侍従長ではありませんよ」
「そうでしたね、ステラ」
ステラの名前を呼ぶのは初めてだなと、ルシアナは思った。
ここで間違えても、彼女に対して敬称を使ってはいけない。
そんなことをすれば叱責を受ける。
貴族たるもの、平民に対して身分の差を意識するのはお互いのために必要なことであると教わっていた。
実際、ステラもルシアナに対しては挨拶をするが、マリアやキールに対してはまだ何も言わない。
二人に挨拶をするのは、ルシアナをもてなした後であるとわかっている。
特に、周囲の目がある屋外では。
「ところで、そちらのお子さんは?」
「孫のライクです」
「はじめまして、ライクと申します。お会いできて光栄です」
「ライクですか。良い名前ですね」
ライクはまだ七歳だが、ステラの教育が行き届いているのか、しっかりとした挨拶をする。
「どうぞ、小さい家ですがお入りください」
ステラに案内され、息子夫婦が生活をしているという家に入る。
中には一人の女性が立って待っていた。どうやら妊娠しているらしく、身重らしい。
このあたりでは妊娠中の女性はお腹が目立つようになってからは家の外に出てはいけないという慣習があり、貴族が訪れたときもそちらが優先される。
ルシアナが訪れても家の外に出なかったのはそう言う理由か。
「ステラの娘のアイラと申します。すみません、ルシアナ様。挨拶に出ることもできず」
「いいえ、構いません。挨拶に感謝します。どうぞお座りください」
アイラを座らせると、ルシアナもステラに促されるまま客用の椅子に座る。
そして――
「ステラ様、お久しぶりです。こちら、お嬢様よりステラ様への菓子と蜂蜜酒、葡萄酒です」
「まぁ、凄い量ですね。ありがとうございます、お嬢様」
マリアからお土産を受け取ったステラは喜び、それを脇に置く。
彼女の喜びようからして、ルシアナの悪評は彼女の耳にまでは届いていないらしいとルシアナが少し安堵した……その時だった。
「お嬢様、侍従長の身を辞した身でありながら、元教育係の立場として言わせていただきます。過ぎたる贈り物は、己の不徳を証明するきっかけになりますよ。何かやましいことでもあるのでしょうか?」
というステラの鋭い眼光に、ルシアナは「しまった」と内心で己の愚かさを呪うのだった。