「まさか、噂のシア様が、お嬢様だったとは。いえ、あの時の賛美歌を考えると――」
「やめてください。あれは私にとって忘れたい記憶です」
本当は覚えていかなかったらいけないことを全然思い出せないのに、思い出したくもないことは全然忘れることができない。思い通りにならない自分自身が嫌になる。
もっとも、前世の行いも、本来は思い出したくない記憶なのだが、己の罪を忘れることは、贖罪を拒否することになる。
だから、決して忘れない。
ルシアナは、用意してもらった蜂蜜入りのスコーンに手を伸ばす。
「ハインツ先生、それで小麦に対する呪いですけど、公爵家を狙ったテロという可能性は考えられませんか?」
「確かに、該当する畑の小麦が全部台無しになれば、公爵家で生産される小麦の五分の一が台無しになります。かなりの痛手ですが、いまは三圃制農法の導入により、小麦だけでなく大麦やオーツ麦も大々的に育てていますからね。食糧不足になることはありませんよ」
そう聞いて、ルシアナが安心したのだが、直ぐに考え直す。
「もしも三圃制を導入していなかったらどうでしたか? これまでみたいに二圃制、小麦だけの栽培だった場合、どうなっていたでしょうか?」
「それでも、いまは十分に食糧の在庫がありますから……いや、その食糧も三圃制が導入されたからで、それまでのように食糧不足が続いていたとき、小麦の五分の一が収穫できないとなれば……」
ハインツが頭の中で計算をする。
単純に食糧不足な状況だけでなく、三圃制が導入されなかったときの人口推移や、その時の他国からの小麦の輸入量なども計算に入れているのだろう。
「その時は開拓村の取り潰しとなり、そこにいる村人の何割かは見殺しになるでしょうね。アーノル様なら、私財の何割かで他国から小麦を買うでしょうが、全員を助けるのは不可能です」
「やはりそうですか……」
そして、それは前世の世界において、実際に起こったのだろう。
ルシアナが覚えているのは、現在から半年後くらいの話。
カイトから、少し節約するように手紙が来たことがあった。
恐らく、その原因が、今回の呪法による小麦の不作なのだろう。
その後、どうなったのかは覚えていない。
聞いた気がするが、興味がなかったのだ。
「ありがとうございます、先生。どうか、呪法について調べてください。私も何かいい手立てがないか考えてみます」
ルシアナはそう言って、ハインツと別れて寝室に向かった。
キールは神殿の外で護衛、マリアは執務室で書類の作成をしているため、部屋には誰もいない。
「記憶回復ポーションを飲むしかありませんね」
ただ、その話を聞いた具体的な日付が思い出せない。
「(自慢にもなりませんが、前世の私の、興味のないことに対する記憶力の無さはかなりのものです。話を聞いたその日、もしくは翌日の記憶を思い出さないとはっきりと事情がわからないでしょうね)」
つまり、一回や二回の試行で、目的の情報にたどり着ける確率は極めて低いということだ。
幸いにも、苦味を甘味に変える呪法薬は、まだ三回分程残っている。
それに賭けて、試してみるしかない。
その前に、前回で使い切ってしまった記憶回復ポーションを作らないといけないが。
呪法に関する講習会も同時進行で行われた。
その講習会にはハインツも参加し、森の賢者から直に教えを貰えることに感動していた。
だが、結局、記憶回復ポーションの素材が到着したときにも、味覚を変える呪法の修得はできなかった。
「別にシア様が薬を作る事にこだわらなくても、森の賢者様に薬を作ってもらうとか、呪法を掛けてもらうとかして味覚を変えればいいんじゃないか?」
「いえ、そうはいかないのです。森の賢者様も神獣様も、呪法を使うことはできますが、その威力の調整が得意ではないそうなんです。仮に森の賢者様の作った呪法薬を使った場合、一滴使用するだけでも一年は味覚が元に戻らないそうです」
「げっ……それは辛いな」
「ええ、辛いです」
蜂蜜入りのスコーンを食べても苦くて美味しくない状態が一年も続くのは耐えられない。
日常生活すらままならなくなるだろう。
「なぁ、シア様がなんのために記憶回復ポーションを飲もうとしているかは知らないが、それ以外に調べる方法はないのか? 過去のことなら、ステラの婆さんや、他の侍従たちに聞けばある程度はわかるだろ?」
「いえ、これは私が調べないといけないことなんです。私にしかわからないことなんです」
ルシアナはそう言って、作り終えたばかりの記憶回復ポーションを置き、先に味覚を変える呪法薬を飲む。
呪法薬の効果は一分程度しかない。
急いで、記憶回復ポーションを口に入れた。
猛烈な甘みとともに、忘れていた過去の記憶が呼び起こされる。
その蘇った記憶の整理と、口の中いっぱいの甘味で、最低でも三十分は動けなくなる。
連続で記憶回復ポーションを飲むことができないのはそのためだ。
だが、整理した記憶を読み解いても、思い出せる内容は大したことがない。
「キールさん、紙を――」
「こちらに」
蘇った記憶の情報は、これから半年後、とある男爵が捕まったという話だ。
とある貴族が平民の女性を屋敷に連れ込み、性犯罪を犯しているというものだった。
彼が捕まる一年前――つまり今から半年以上前から行われており、被害者の数は数十人にも及ぶらしい。
「これを――シャルド殿下に届けてください。あの方ならきっとうまく処理してくれます」
それを紙に書き、シャルドに送らせた。
ルシアナがタイムリープしたことにより、未来が変わっている可能性もあるので、あくまで噂として聞いたと書き記しておく。
シャルドがどこまで動けるかはわからないが、側近のレジーに相談すれば、彼がなんとかしてくれるだろう。
一番の懸念は、シャルドがルシアナからの手紙を読まないことにある。
前世なら、手紙の返信は一切くれなかったシャルドだが、しかし現世では共に婚約破棄を目指す同志、きっと手紙も読んでくれるだろう――ルシアナはそう思った。
「殿下にですか?」
「お願いします」
そう頼むルシアナだが、彼女は正直悔しかった。
もしも、このことをしっかり覚えていたら、半年間の被害者を出さずに事件を防げたかもしれないのに……と。
その自責の念が、ルシアナを突き動かす。
ルシアナはさらに時間を調整した記憶ポーションを取りだし、味覚を変えて飲んだ。
目的の記憶はやはり手に入らない。
さらに、休憩を挟み、最後の味覚を変える呪法薬とともに記憶回復ポーションを飲む。
だが、貴族裁判の陪審員として手に入れた犯罪の証拠はあれども、目的の記憶は手に入らない。
そちらも手紙に書き、シャルドに送ってもらう。
もう、口の中は猛烈×3の甘味で感覚がない。いまなら、苦瓜を食べても甘く感じることだろう。
(そうですわ、いまのこの状態でしたら、普通に記憶回復ポーションを飲んでも平気なのでは?)
人間、追いつめられるとバカなことを考えてしまうというが、ルシアナのこの時の心境はそれと同じだったのだろう。
彼女は、味覚を変える呪法薬を飲まずに記憶回復ポーションを飲んだ。
結果、彼女はその日、一日中口の中の苦味が消えず、水を飲むときすらあまりの不味さに涙を流すことになった。